「その他の外国文学」の翻訳者
編:白水社編集部
ずいぶんと前から気になっていた本だった。アメリカ文学やイギリス文学のように書店にカテゴリーが設けられてはいない外国語文学。アジアとひとまとめにされてしまったり、あるいはその他に分類されるようなマイナー言語の、外国語文学。それらを訳して日本の読者に広めようと奮闘する翻訳者たちのインタビューが、この一冊に集められている。
どうしてその言語を翻訳するに至ったのか、その経緯は十人十色だった。誰ひとりとして同じ道を辿った者はいない。そこにはただ、先達の少ない獣道をどうにかして切り開き、前へ進まんとする信念がある。
マイナーな言語で物語をつむぐ小説家は、その国や近隣でひろく使われる共通語で自身の小説を書き直す場合がある。ではそのような小説は、共通語から翻訳して日本語にすればいい。そう浅く考えずに、必ず作者の母語から訳そうと努力を惜しまない翻訳家たちにこころからの敬意を表したい。言葉の違いだけでなく、ことばのリズム感や語呂感、その国の文化をいかに注を少なくして小説に落とし込むか。いったいどれほどの試行錯誤の上で、わたしたちのもとに他言語の本が届くのだろう。きっと、この本を読んだところでその苦労のすべては理解できない。ただただ、こんな素晴らしい職業がAIにとって代わられてしまう可能性があるだなんて、と悲しく思う。単にひとつの言語を別の言語に訳すだけでは、翻訳とは言えない。文化や価値観の差異を、文脈による意味を、すべてを伝えるべく思考を巡らせなければならない。本当に尊い仕事だと思う。
この本には、それぞれの翻訳者がその言語を学ぶのにうってつけの本、おすすめの小説のタイトルが掲載されている。つぎはこの中からいくつか読んでみたい。
小説集 Twitter終了
作:青井タイル・足立まいる・乙宮月子・根谷はやね・九科あか・斜線堂有紀
合同の同人誌ver.は買い忘れていたので、本屋で見つけたときは、つい「えっ!」と声をあげてしまった。
わたしたちの住処twitterがxと名を変えてからも、わたしは頑なにtwitterと呼び続けている。しかし、いつのまにかアイコンから鳥は逃げてしまったし、フリートもとうに無くなってしまった。twitterへの追悼を胸に、この本を読む。
斜線堂先生の短編は、twitterがなくなってしまったがゆえに探偵と助手が会えなくなるという筋書き。わたしにもTwitterでしか繋がっていない友人がいる。たぶんきっと、みんなにそういう友人がいる。現実のお互いを知らなくて、でも数年ぽつぽつと話す中で、ただこのアプリが死んでしまったら途絶えてしまう、そんな関係。あやういんだな、儚いんだよなあ、と思い出す。わたしは探偵じゃないから、きっと助手を探し出した彼のように自分のフォロワーを見つけることはできない。それは、ちょっとかなしい。
となり町戦争
作:三崎亜記
お父さん文庫(父が昔買い集めていて数十年のあいだ車庫に眠っていた本達のことを、私が勝手にそう読んでいる。時々数冊選んで持ってきてくれる。)の一冊。
見えないけれど、確実に、となり町との戦争がすすんでゆく。当たり前のように戦死者という文字がある。とても自分事とは思えないうちに、主人公もそのうず巻き込まれ、見えないけれどそこに存在する戦争を肌で感じる。それが、今のわたしたちの生活と重なるように思えた。わたしたちには、戦争が見えない。海の向こうで争いがあるのは知っている、死亡者も報道で見る。でも、それでもうまく「今、ここ」で起こっている出来事とは考えづらい。特定の飲食店に入らないようにして、ささやかな抵抗を示す。戦争が見えなくても、その正当性を否定する。この目でそれを見なくとも、どこかで起きている。そのことを、忘れないようにしなければ、と思う。
小説以外
作:恩田陸
恩田陸先生のエッセイ。作品の解説や、雑誌の寄稿文などなど。数ページ読めば別のテーマのエッセイに切り替わるので、乗り換えの多い通学にうってつけの一冊。恩田先生の作品は小学生から中学生にかけてよく読んでいたので、知っているタイトルをよく見かけた。六番目の小夜子、オデュッセイア、朝日のようにさわやかに。あれもこれも、どれも面白い話ばかり。もちろんエッセイもユーモアたっぷりで、飽きが来ない。
大学時代についてのエッセイでは多読をする恩田先生の描写がされ、その度にわたしにはそれくらい読めるだろうか、無理だろうな……という気持ちになる。私の場合、早く読もうとすると文字がすべってうまく意味をとらえられない。するすると読んだ内容が出ていってしまう。全くといっていいほど何も覚えられない。朗読するより少し早いスピードが限界だ。句読点で一呼吸おいて次の文にうつらないと、何がなんだかわからなくなってしまう。月に読める冊数を増やしたいけれど、この有様では今のペースを保つのがやっとだろうなあ、と思う。