上野の精養軒で食事をしたときのことだ。ずいぶん前の話である。
親しかった人と、卓を挟んで向かい合っていた。他人と向き合う食卓では、笑みや冗談を交わすものである。こちらがそんな調子でいると、ふと視線が滑って遠くの卓が目に入った。
年配の男女がいた。こちらと同じように向かい合って食事をしている。夫婦だろうと思った。二人は黙々と食べている。会話をしている様子はなかった。表情は動かない。
つい、自分の食事相手に向かって言った。「あんな年齢になって――」 ――つまらなそうな顔して一緒にいるのは、と続けそうになったが、相手は老夫婦を見やって言った。
「いいじゃない。仲がよさそうで」
私には、仲がよさそうには見えなかった。もっとも、見えなかったのは、仲のよしあしではなくただの表情である。一方、私の同伴者はたぶん、顔つきではなく、二人の行いに思いを巡らしていた。歳をとってなお二人で外へ出て、席を向かい合わせ、ふだんとは違うものを口にする。そこに、表情より確かなものを見たのだろう。
年月が経ち、私はあのときの早計な推論を改めることにためらいはない。年齢を重ねた今、実感するのは、楽しい気分のときでさえそれが顔に出にくいということである。鈍感になったというより、そうして見せる義理がなくなったというほうが近いだろう。
かつて、他人の表情を読むことが重要だと思い込み、また、つねに前向きな表情を見せることこそ立場に相応しいと思い込んでいた。その表情という指標が、社会から退きかけている自分には無意味に思え、そして、社会にかかわっていたときでさえそうだったと悟り始めている。
その食事相手はその後、私の配偶者となった。私たちもまた、あの遠くに見えた卓に座るのである。
(2026年1月31日 note)