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座ってみた?

穏楽亭(おんがくてい)
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公開:2026/10/4

 もう、ずいぶん昔の話である。 

 部長の娘さんが事務所を訪ねてきた。部長が急逝したのはその二か月前。急な葬儀では、私が職場を代表して弔辞を読んだ。彼の席はそれ以来、空いたままだった。もはや机上には何もなく、そこだけが殺風景である。この小さな事務所で、机に向かう彼の椅子には抗いがたい存在感があった。立派な椅子というわけではない。オフィスにある普通の事務椅子だ。だが、この椅子は部長が座る姿を象ったまま、主がもはやいないことなど認めず、そこにあり続けていた。

 娘さんは、父親に関するいくつかの手続きのために事務所を訪れたのである。娘さんと職員が応接室で手続きの確認を終えると、私も入って少し言葉を交わした。突然のことで、いろいろとしなければならないことが続き、心身ともに疲れ果てたと、ときおり涙ぐみながら娘さんは語った。それから、思い出したように、「父は、ああいう物言いをする人でしたが、根はとてもいい人なんです。真っ直ぐすぎるだけで」と言い添えた。ええ、よく知っていますとも。私が着任して間もなく、部長が大きな音をたてて椅子から立ち上がり、血相を変えて私の席にやってきたのを覚えている。とある関連企業から届いた一方的な通知に憤ってのことだった。「何の説明もなく、いきなりこんなことを言ってくるのはおかしいでしょう。私たちはあちらの下請けじゃないんですよ」――彼の怒りどころは、まあごもっともだけれど、それはさておき、彼のストレートな物言いと、筋を通さずにはいられない人となりがよく分かった。正直なところ、むっとしたのだが(私はその企業から来ていたので)、今となっては、がしゃんという椅子の音とともにひとつの思い出である。「父は、今の職場に巡りあってとても感謝していました。人の役に立つ大事な仕事なんだって、生きがいを感じていたようでした」

 会話が終わると、職員が娘さんに「お父さんの席をご覧になっていかれては」と誘い、ふたりは部長の席へ向かう。見ていると、娘さんは父親の席の脇に立って周りの職員と話し始めた。遠慮をしていたのだろうか、ずっと立ったままだ。せっかくだから、父親のいつもの場所に座ってみればよいのに。職員たちを見渡し、ときどき怒りながらも、生きがいを感じて仕事をしていた父親の席。いや、ここに腰をおろすのは、やはり辛いのかもしれない。

 それでも私は、娘さんが帰りがけに私の席まで挨拶に来たとき、つい言ってしまう。「席に、座ってみた?」 娘さんはわずかに表情をゆるめて「いいえ。じゃあ、座ってみてから帰ります」と答え、父親の席に向かった。余計なことを言ったかもしれないと、すぐに後悔する。突然また涙ぐんでしまわないだろうか。「娘を泣かせるんじゃない」と、あの世から部長が血相を変えて、私の席にやって来はしないだろうか。

 杞憂であった。娘さんは父親の席にリラックスした姿勢で座り、職員にスマートフォンで写真を撮ってもらっていた。ピースサインをして。父親が自席の横に立ち、笑っているのか呆れているのか分からない表情でそれを見ている気がした。

(2025年11月20日 note)