無題

おに
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感情の激流に押し流された後に

大きな疲労感、無力感、寂寥感を感じるというのは、当たり前の事ではなかろうか。

そもそも負を感じもしない人生なんてつまらない。

今、手に負えないと感じているその無力感は、あの感情の激流の裏返しだと思えばね。

疲労感は何かを感じたり成し得た証拠、無力感は貪欲な証拠、寂寥感は愛を求めている証拠。

その感情の大きさが受け止めた感動の大きさを物語っている。

その苦しみをゼロにするという事は、自分の得た感動を認めないという事に他ならないのではないだろうか?

強い光を放つものには、より濃い影が出来るものだから…

上手く立ち回れば美しい光だけを感じる事が出来るかもしれないけれど

結局は影から光までの振り幅が心の機微を深めることになり

それがこの世界かからの感動を享受するための礎になるのだとすれば

上手く立ち回る必要などないのではないかなとも思うわけです。

今までにも何度か書いてきたけれど、無力感を感じない事が強さなのでは無く

無力感を、その衝撃を”受け止める力を養う”という事

「おお…、今度はそうきたか」そんな感じで

つまり、身も蓋もなく吹くけどさ。

あきらめろ!

Mになんなきゃ、やってられない!…(笑)

…って、いつも自分に思うわけです。

しかし感動以外にも人の心の平穏を奪う衝撃はある。

「心を込めた言葉」「善意」「等しい権利」…どんな大義名分があれども、自分の感情のトルネードに人を巻き込むことは暴力になる事がある。

そこに共感する事が、必ずしも「人と繋がる」という事だと思わない人間もいるし、そこに謎を感じる人間もいる、という視点を欠いているという意味で。

苦しむ誰かを指差し、簡単に「涙した」と言い、簡単に「尊敬する」という。

それは既に、人を評価する権利を自分に認めている人間の高慢であるように思う。

その涙は人の苦しみを憐れむ涙(寄り添っているわけではない)。

その声はどんなに力強く聞こえても、人に評価を下す大声(優しさではない)。

言葉を綴るという事は、人の心を操る可能性があるという事だから

言葉に自信のある人ほど耳をすませなければいけないと思うのです。

誰かの傷に善意の笑顔でナイフを突き立てていないかどうかを…

もっとも世の中にはそんなような言葉は無数に飛び交っていて

お互いにまったくの無傷でいるなどという事は不可能なのだけれども。

言える事は

そういった”評価”を相手取って、または一緒になってシュプレヒコールをする必要も

誰かを憐れむネタを探して感動とすり替える必要も無いという事。

大多数の共感の中に自分の心がないからと言って、傷つかなくても良いのです。

ただ

そもそも自分にとって大切なのは何であるのか。

自分の心に平穏をもたらすものは何であるのかってこと。

自分の冒険を、この道を彩るのは何であるのかってこと。

誰かが毎日意味のありそうな事を叫んでいても、演説を聞くか聞かないか選ぶのは自分。

聞いた時に、その意見に反対か賛成か、自分の意見を声に出すか心にしまうか、

それを選ぶのも自分だってこと。

誰かのではなく、自らの感受性を認めること。

感動と無力感…表裏一体の正体不明のうねりを感じている自分の心

それは絶対に無くなるものではないけれど

広い広い苦悩の海を漂っているような気がしても

小さく明滅する、それぞれのための柔らかな光が必ずどこかにあるわけで。

暖かな手。暖かな音。暖かな色彩。暖かな香りが。

私は香ばしい匂いに心を浮き立たせる事が出来る。

知らなかった事を知った時、「そうだったのか!」と手を打つ事が出来る。

柔らかな肌触りに安心と気持ち良さを見い出す事ができる…。

間違いなく、自分が感じている、自分が信じている感情の動き

日々の中で、誰とも重ならない小さな心の選択を積み重ねること。

それが自分という人間を創造し、その創造が必ず生きる力になる。

そしてその力は間違いなく次に来る、より大きな感動を受け止める力にも、善意のナイフを軽やかに避ける力にもなるのです。

自分の胸に訪れる想いの波に乗ろう。

何かを知り、何かを見て、新しい複雑なひだが心に増え、そのひだの分闇の色が増したように感じても、私たちは思い出せる。

初めてその大きな波に飲み込まれた日の感動を。

その鮮烈な邂逅を。

それが多数でも無く、少数でも無い

誰にも侵す事の出来ない自分だけの人間性というものであり幸せなのだと思うのです。