何かを学ぶ上で「手を動かせ」というよく言葉を聞く.
僕も「手を動かす」ことは大事だと思っており,実際に日々意識していることではあるが,その本質を理解した状態で「手を動かす」をしているか否かで効果は雲泥の差だと思う.
ここでは,自分が考える「手を動かす」ことの本質を記す.(あくまで僕の理解なので悪しからず)
問題解決の追体験
僕が考える「手を動かす」の本質は 問題解決の追体験 である.
例えば,あなたがカレーを作っているとしよう.カレーは完成したのだが,何だか深みが足りない.そこでカレーに深みを出す一手間を調べることになる.調べてみたところ,カレーにチョコレートを入れると深みが増すらしい.そこであなたは実際にカレーにチョコレートを入れてみる.するとどうだろう,調べた通りカレーにコクが出たではないか,めでたしめでたし.
上記の体験をしたあなたは,おそらく「カレーにチョコレートを入れるとコクが増す」という知識は死ぬまで忘れないだろう.
ここで別のストーリーを考える.
あなたは,カレーを作ろうと思っている.何となく調べたレシピの材料にチョコレートが入っていた.そのレシピによると,どうやらカレーにチョコレートを入れるとコクが増すらしい.レシピ通り作ったところ,問題なく美味しいカレーができた.めでたしめでたし.
この体験をしたあなたは,「カレーにチョコレートを入れるとコクが増す」という知識を,記憶に定着させることができるだろうか.おそらく私の感覚では1年もすれば完全に忘れているだろう.何なら人によっては 3ヶ月も覚えていないと思う.
では,前者と後者の違いは何だろう.両者ともカレーを作っているという点で,「手を動かす」は実行しているように思える.がしかし,「カレーにチョコレートを入れるとコクが増す」という知識の定着度には差がありそうだ.
僕の解答としては,
課題の発見 (作ったカレーにコクが足りないと気付く)
解決方法の発見 (「カレーにチョコレートを入れるとコクが増す」という知識をインプットする)
課題解決の確認 (実際にコクが増したカレーを作る)
すなわち,問題解決の追体験 をしているか否かにあると考える.後者の例では,上の 1 がない状態なので,「問題解決の追体験」になっておらず,知識の定着が悪いということだ.
なぜ「問題解決の体験」ではなく「問題解決の追体験」という表現をしているかというと,世の中にある知識(今回の例だと「カレーにチョコレートを入れるとコクが増す」)はもれなく誰かが最初に困難にぶつかり,試行錯誤し,見つけた解決策だからである.これは数学の公式や,ソフトウェア開発における技術などもれなく当てはまることだと思う.
手を動かすことで,先人がその知識を生み出すにあたり体験した困難の過程を追体験することができるから「手を動かす」ことが重要なのであり,逆にいうと問題解決の追体験を出来ない,もしくは意識していない状態での「手を動かす」はそこまで効果的ではないと思っている.