イスラエルは新たな畑を得るために草を刈るような気分で人を殺しているのではないだろうか。ラファへの攻撃が始まったという報道があり、外務省へ停戦に向けてできることは何でもしろという旨の意見を送った。
連休が終わって今日からまた講師の仕事が始まった。期間があいたのも影響して、授業中「何か言わないと」と思ったのに最後まで何も言えなかった。「何か言うことあるか聞かれたとき “いや、大丈夫です…” って言って何も言えないんですよね」と知人に話したら「だめじゃーん!何か言わないと!人に教えるなんてなかなかできることじゃないんだよ?」と言われた。わかってる。わかってても言えない。そうした場面を避けることを覚えるとなかなか症状は良くならないことも、何でも良いからやってみればなんとかなるという成功体験を積むのが大切だということもわかってる。それでも怖くて何も言えないときがある。動悸が激しくなって、喉が詰まってうまく発声できない。頭が真っ白になってものを考えることができない。思ったことを話す、たったそれだけのことができない時のやるせなさと絶望感。それがどれくらいの苦痛であるかを他人にうまく説明できない。
駅に掲示されていた美大の広告に「だれかで終わるな」というキャッチコピーが書かれていた。誰もが「だれか」であって、誰も「だれか」ではないのが社会だと思う。何か複層的な意味のあるキャッチコピーなのかなとも思ったけど、たぶん唯一無二の存在になろうぜ、自分を確立させようぜ、有名になろうぜ、生き残ろうぜ、みたいなことだろう。
衆院法務委員会で行われている入管法の審議音声を聞きながら出勤。すんごい堂々と排外的な発言をする。人がより良い暮らし(治安面、経済面、安全面、人間関係など「良い」にも色々なことが含まれるのは言わずもがな)を求めて移動したり、居住地を選んだり、国境を越えたりすることは当たり前。人が移動する自由も留まる自由も最大限守られてほしい。