
※2025年10月4日~11月24日に福山城博物館で開催されている秋季特別展「阿部正桓と箱館出兵」の内容を含みます(ギャラリートーク含む)
土方歳三の和泉守兼定、西日本で初公開だそうです。
春にご実家で見させてもらったばかりですが、同じく春、ふくやま美術館へ行った時に、尾道久しく行ってないな〜と思ったので、尾道・福山を散歩しに行きました。

全然知らない駅になっている・・・・・・
前に来た時は工事中だったから、すごく広々と綺麗になっててびっくり。いつ工事終わってたんだろうと調べたら、2019年3月に新駅舎開業!という記事が……6年前……?
まあ6年前なんてこの前ですよ。あんさんぶるスターズも刀剣乱舞も10周年ですからね。10年まではこの前。
まずは朝ごはん

焼きサバの朝ごはん。
美味しかった!卵焼きが好きな味だった。甘いけど甘すぎない…みたいな……………実家の味…?

ご飯を食べて、ロープウェイに乗りたかったので乗り場まで歩く。


駅は綺麗になってたけど線路は昔のままだな。好きな風情。

商店街を通ったり線路の脇を歩いたりしてロープウェイ乗り場に着いたけど、とっても行列なのでやめた。大人気アトラクション。
15〜20分だし千光寺まで歩くことにする。でも坂道を登っているとみんな下りてくるからやっぱりロープウェイで上まで行ってから下りてくるルートがいいんだろうな。

登り始めてすぐに猫の細道に入る。

この辺りだけ薄暗く、廃墟も目立って世界観が出来上がってる。良い。



猫の細道を抜けた頃には汗だくだったけど登り進めて千光寺着

しまなみ海道?

誰が詠んだかわからない歌

敷き詰められたリラックマかわいい

昔の人もここで写生をしたそうだけど、この日も写生してる人がたくさんいた。港でも、坂道でも、千光寺でも。こっそりキャンバスを覗くと私が見ている景色とは構図も色も違って、この人にはこういう風に見えてるんだな〜というのがすごく良かった(勝手に見るな)(それはごめん)
正確・忠実に描こうとしてるなら本当にごめんな感想なんだけど。だったとしても絵って、というか自分が見えるもの・聞こえるもの・感じるものって自分だけのもので自由でいいから、外に出すためにわざわざ他人の目を考慮する必要ってないよね、と、強く思うことが最近よくある。なんの話?
あと、外で見たまま絵描くっていいな。写生とか小学校の行事以来してないけどやってみようかな。

などと、1人で勝手に思いながら千光寺を参拝をして天寧寺へ

浮いてる室外機

天寧寺行ってから一度、線路まで下りてしまったけど坂道を歩きながら尾道駅まで戻りたかったので、また登ったり

迷ったり

私は『迷う』遊びをしてたけど、本当に迷ってお連れさんと合流できない人と間違えられたりしながら、光明寺、待光寺と寄りながら尾道駅まで戻った。ちょうど電車が来たので飛び乗る🏃
そして福山城。駅から徒歩0分。

前日に岡山城を見たので、趣違うな、と城初心者の感想。石垣?敷地内が複雑な気がする。岡山城って広々してるんだな。

今回の展覧会は幕末の福山藩をテーマにした展覧会三部作の最後、序破急でいうと急。私は序も破も知らなかったのでオチから入らせていただきます。
展示室内は撮影不可。知らずに行ったけどギャラリートークが聞けたのでそのお話中心に以下メモ
福山藩最後の藩主、阿部正桓公
多趣味な方だったそうで、その趣味のひとつである写真がたくさん残ってる。撮るのも撮られるのも好きだったらしい。
日本で最初の写真館が1860年に開かれたのに、1868年に18歳で福山藩主になった正桓公が写真を趣味にしてたってすごいな。
先妻の寿子様の写真は最近見つかったものだそう。
奥様との交換絵日記がかわいかった。
今回の展覧会の1人目の主人公榎本武揚
大変優秀な方で、箱館戦争後も投獄されたけど釈放されて、明治政府に支えていろんなこと(雑)をした方。
ちなみに榎本武揚の父が福山の人で、測量のために福山に訪れた伊能忠敬を気に入って(?)弟子になった人。福山の人でも意外と知らないらしい。
よく見る写真で着ている軍服
靖国神社所蔵のもの。ダブルのコートみたいなやつ。
ナポレオン三世から徳川慶喜に贈られ、それを榎本武揚が拝領した物。ボタンに使われてるのは葵の御門…なんだけどフランス製だからちょっと違うとか、写真は写ってる白い袖は邪魔だからとってたんじゃないかとか、縫った後は残ってるとか。
榎本武揚の流星刀
宇宙より飛来した隕鉄を用いて制作された刀。
それだけでロマンを感じるけど、箱館戦争に負けた榎本武揚が明治政府に仕え、明治7年(1874年)に就任したロシア特任公使時代にロシアにて隕石で制作された刀を見て『自分も欲しい!』という夢を抱いて、明治23年(1890年)に富山で発見された隕鉄を、明治28年(1895年)に武揚が自腹で購入し、明治32年(1899年)に2口が完成する、という大きく時代が変わってから持った夢を約20年越しに叶えた形っていうのが、熱い。
制作したのは刀2口、短刀3口。刀2口のうち1口は大正天皇に献上されていて今は御物となっているので今回展示されている刀は一般人が見ることのできる唯一の刀(ということでいいんだろうか?)で、すごく貴重な機会だといわれていた。
見た印象は地鉄が特徴的だった気がする。年輪の模様がはっきりしていて。これが鉄の質の違いというやつなんだろうか…。制作者の試行錯誤が窺われる一振りと解説されていた。
私はいまだに折り返し鍛錬のことが信じられない(鉄を15回折る???無理でしょ???という感じで)のに、24回とか(今回展示してある流星刀ではないけど)らしくて苦労が窺えるどころではない……。
榎本武揚が購入して流星刀の制作に使われた隕鉄の残りは上野の国立科学博物館で常設展示をされている。
榎本武揚が、徳川幕府の裏切り者が多いことを嘆いた書
隣に展示されていた七里濱の書とずいぶん字が違って情けない字というか…。嘆きの表現なんだろうか?(絶対違う)
麦叢録
旧幕府軍で開陽丸旗艦長を勤めた小杉雅之進が箱館戦争を描いた絵画資料。
海図を描く人は絵心があったらしい。タイトルは箱館戦争の期間を麦の生育期間に準えたものらしく、シャレてる。宴会の絵がゆるかわいい。
今回の展覧会のもう1人の主人公、土方歳三
東京・日野の土方歳三資料館からたくさん資料を送ってもらっていて、西日本でこんなに見れることってあるのかな?結構貴重な機会なんじゃない?
ちなみにさっきから言ってる『主人公』っていうのは学芸員さんの言葉を借りている。
近藤勇から土方歳三に発行された目録
『歳三』の名前の部分が『義昌』に書き換えられてるあれ。
この春に土方歳三資料館に行って、行くこと自体が10年くらいぶりだったので感慨もひとしおという感じだったけど、土方さんの顔を見て直接お話しを聞くと、家に残ってる資料を残そうとした人の想いみたいものを強く感じる。歳三資料館だけじゃないはずだけど、現在の私の感想。
この目録もそう。『義昌』は、歳三の諱『義豊』と勇の諱『昌宜』から一字ずつ取られたもの。見る人が見れば、2人の関係性を知る人が見れば、これが2人の間に交わされたものだとわかるように土方家が書き換えたのだろうと、熱く語られる解説に私も熱くなった。
土方歳三の和泉守兼定
私は今年2回目です、が、西日本では初公開ということでこちらも熱く語られてました。
自慢も込みで、と学芸員の方は仰られていたけど、持ってみると物打ち(実際に斬る時に使う部分、名称間違ってたらごめん)が手元に比べて薄くなっているのがわかる。これは明治に土方家によって研ぎに出された時に刃こぼれが酷く、研いだから薄くなっているというもの。部分的に薄い→研いだから→刃こぼれが酷かったから→実際に使っていたから、という土方歳三が使っていた痕跡を感じる。
今回は出てないけど、柄巻きにも使用痕が見れ(見れたはず)て、歳三資料館の和泉守兼定って証明だと感じた。土方歳三が生きたことと、土方家の方達がそれを忘れられないように遺してきたことの証明。さっきからずっと熱い。
見る部分で景色が変わる、見ていて楽しい・美しい刀だと紹介されていた。鋒側に三本杉が見られるといわれたけど私は見えなかった…多分春も見えなかった…。
土方家に伝来する当時の戦争の記録、近来戦争の控
当時の土方家当主の方が写したものらしく、近藤勇のさらし首を伝える瓦版の写しなどが展示されていた。これも土方歳三資料館のものだから多分日野でも見れる。
この写し、よくみる😞って顔じゃなくて凛々しい表情に書き換えてある。写した土方家の方の近藤勇に対する敬慕が感じられる。そういわれると私が😞って顔になる。
『入室伹清風』
いつ聞いても素敵だな。土方家の仏間に掲げられていたため、線香で燻されて茶色くなっちゃった書。使用感ある。
1時間半を越える熱いギャラリートークをたっぷり聞いて、さらっと復習して、図録を買いました。流星刀について文章書いたので是非買って読んでほしいといわれたので思わず。
熱かったし、めちゃめちゃ坂道歩いたし、尾道でかき氷食べれなかった(入ろうかと思ったけど人に話しかけられて返事してたら素通りしてしまった)し、帰ってかき氷食べに行こうかな…と思ったけど時間が微妙だったので駅前の喫茶店でワッフルを食べた。
アイスはさみワッフル、サクッとしてて美味しかった!
