「不完全な司書」(晶文社)という本を読んでいる。奈良県の私設図書館で司書をされている、青木海青子さんの書かれた本だ。著者の思いに触れ、なんだかゆったりとしたひと時を味わえる。不思議な魅力を持つ本だなと思う。
本のP.94、「ルールとのつきあい方」のなかに、ちょっと立ち止まって考えたくなるような文があったので、引用しつつ考えてみたい。ルチャ・リブロ(私設図書館の名前)に館内の利用ルールを掲示していないことについて書かれていた一節をほとんどまるまる引用する。
確かに当館内にはルールを提示していません。(…中略…)必要に応じてルールを取り出したり、取り出さなかったりしています。開館当初はこちらの意図がうまく伝わらないような行き違いらしき出来事があると、館内にルールを提示したくなる時もありました。例を挙げてみると、当館に上がるには縁側に設けた木製の階段を使う必要があります。階段にあがる時には靴をn浮いでもらいたいのですが、提示などがないので、時々齟齬が生じます(もちろん、お客さんには全然非はありません)。こういう時に「靴を脱いであがってください」というようなことを書こうかな、と思うこともあったのですが、だんだんその必要性を感じなくなりました。靴を脱がずにあがる人には声をかけて、階段は拭けばいいだけなので、そんなに困ることではないし、全部書いてあって考えなくて済む、という状態より、「ここはどんな場所だろう」とアンテナを張ってもらった方が、結果的に来館された方がルチャ・リブロという場と仲良くなれるような気がしました。また、先に来館されていたお客さんが、「そこの階段から上がったらいいよ。あ、靴は脱いでね」と声をかけてくださったり、靴を脱いでおいてくれることで後から来たお客さんもそれに倣ってくださったり、ということもあって、書いておかない方が言葉やそれ以外でのコミュニケーションも増えるのだと感じました。ご来館の方々が銘々にアンテナを張り、お互いの存在を感じ合いながら場を一緒に作ってくれるからこそ「皆なんとなく自分の場所に納まって、それぞれ快適に過ごしている」状態が生まれるのかもしれません。
青木海青子 (2023), 不完全な司書 晶文社, pp.94-96
「チームに人を迎える」という文脈で、似たようなことを考えて実践していたことがある。「あえて細かくドキュメントにしないことで、周囲の人に尋ねさせるように仕向け、コミュニケーション量を増やす」というような感じ。
でも、この著者の考えは僕のさらに先に行っているように思える。特にこの部分だ。
「ここはどんな場所だろう」とアンテナを張ってもらった方が、結果的に来館された方がルチャ・リブロという場と仲良くなれるような気がしました。
「『ここはどんな場所だろう』とアンテナ」が面白い。僕の解釈では、この「ここはどんな場所だろう」には好奇心が色濃く現れているように思う
僕なら「新しく来た人は『ここはどんな場所だろう』と不安に思うだろうから…」と考えてしまいそうだ。同じ「ここはどんな場所だろう」なのに、この「不安」と「好奇心」の受け取り方の違いはどこからくるんだろうか。
もちろん、「奈良県の私設図書館」というだけで好奇心がくすぐられる場所なのは間違いない。でも、それでいったら新しいチームに迎えられようとしている人だって、好奇心が少なからずあるはずだよな。(実際、僕の経験では「不安と好奇心が入り混じる」という人が多い気がする)
思うに、これは自分の好奇心が失われてしまっている証拠なのかもしれない。チームに長くいて、慣れてしまったというのが大きいんだろうな。
でも、新しくやってくる人に寄り添おうと思ったら、好奇心の存在を忘れちゃいけない。不安ばかりじゃないんだ。
GitLabは「ポジティブな意図を想定する」ということをハンドブックに書いているそうだけど、まさにそれかも。
もっとポジティブに取れるんだな。好奇心をくすぐる何かを、もっと考えてみようと思えた。