人の作品をみてるだけなの面白くないな。一定のところまでは楽しめるけど、そこから先にはいけなくて、なんか楽しんでる感覚がない。感覚があるときは何かに没頭している時で、感覚と言ったけどその頭の中でイメージしてる感覚とも違う。想像できる感覚ではないのかも。理屈で説明されて納得するようなものではなくて、感覚としてそういう心地があるという感じで、心地を言葉にするのはとても難しいと言うか、なんか言葉にしてもしっくりこない、自分自身ですらこの感覚を言葉にできないし、頭で考えるっていうのは言語を使って考えると言うことだから、つまり考えようとしても考えられない。そういう気がしてる。じゃあどうしたらいいのかなってことだけど、この感覚を反復的に経験することが大事かもしれない。どうしてそうなるのかわからないし、どうやったらその心地を感じれるのかもわかってないけど、こういうのをやっているときにこの心地・感覚を得られるなあってその発動したときの状況を頑張ってみつける。この発動を見つけるのも難しい。やってるときはわからなくて、その心地や感覚が薄れてきたときに、「あ今普通のときと違う感覚になってた」って気づく。後になって気づく。その気づいた時、違う感覚だったと言うことには気づけたとしても、なにをはしてたらその状態になってたかをその気づいた時に考えないから、後になったらもう思い出せないとなる。だから発動した時の状況を記憶に残しておくのが難しい。これはもしかしたら俺の記憶力が乏しいことに大きく影響してるのかもしれないが。ここまで入力した文章を一切振り返ってないから文章めちゃおかしいかも。推敲しないとプロフに書いているけど、まったくていないわけじゃなくて、まあしてるのはしてる。けど文章を書くときは全体の構成がどうとか一切考えずに書いてる。とりあえずこの感覚反復したい。この感覚を一言で表せば「没頭」。そこにはいっているときは、余計なことはまったく頭になくて、ただそれだけをやっている状態。スマホを見ている時がいちばん余計なものを考えていて、読書しているときもまあちらちらしていて、けど絵を描いているときは引いてる線に意識が持っていかれて何か別のことを考えるような感覚にならないことに最近気づいた。最近絵を描き始めたのでそれで。ピアノはまったくひけないけど、頭の流れに流れる音と同じ音を鍵盤を押しながら同じ音を見つける遊びをしてるときは余計なことは考えなかった。ピアノも絵も余計なことを考えなかったのはたんに初心者で考える余裕がないからということもあるかもだけど。でもなんか、感覚的に没頭しやすい感じがある気もする。おれは考えるのは得意ではない気がする。ある種の構造をみつけて、こういうのがありそうという構造認識が少しできるくらい。それを構造とし認識できているならまだいいけど、おれはその構造がほんとうにあるのがよく見えてないこともよくある。目を擦って見直したら違ったみたいな。結局のところ、おれはおれが思っていることや感じていることをだしていうことが、おれにとってはいちばん重要なのかもしれないと最近思い始めてる。本当か嘘かなんでどうでもいいというか、いや嘘だったら悲しい気持ちになることもあるけど、でもそれが本当でも嘘でも何かが変わるわけでもないというか、他人事というか。じぶんがやりたいことをやりたい!というモチベではなくて、いやそれもあるか、でもそれ以上にあの心地・感覚でいたいという気持ちがある。この気持ちは、うまくいっていないときの不安定さも含まれていて、むしろ安定しすぎているのも微妙で、このアンバランスの中になるなにが起こるかわからないけどただそれをするだけ、そして楽しい。そういうセカイを今つくろうとしている。
「没頭」というと何かに集中するという意味でとらえていたんだけど、漢字をよくみると頭を沈めるみたいな雰囲気あるなと思ってai(claude3 sonnet)にきいてみた。これ本当かどうかしらないからあとでちゃんと調べようと思う。aiはハルシネーションと言って嘘を本当のことのように言うことがあるからね。とりあえず、以下はそのaiとの対話です。(対話のあとにまたこの続き書きます)
aiとのやりとり
Q
「没頭」この漢字は語源はなんですか?
A
「没頭」という言葉の語源について説明しますね。
「没頭」は、「没」と「頭」の二つの漢字から構成されています。
- 「没」の語源:
「没」は水に沈むという意味の語源があります。もとは「水に沈む」という意味でした。
- 「頭」の語源:
「頭」は人体の頭部を指す漢字です。
つまり、「没頭」という言葉は、もともと「頭を水に沈める」という意味が語源になっていました。
転じて、今日では「何事かに熱中する」「夢中になる」という熱心に取り組む様子を表す言葉として使われるようになりました。
要するに、本来の語源は「頭を沈める」でしたが、夢中になって熱心に取り組む意味が強くなり、現代ではその意味で一般的に用いられるようになった言葉なのです。
Q
どうして夢中になると言う意味になるのですか?
A
なぜ「没頭」が「夢中になる」という意味になったのか、その理由について説明しますね。
もともと「没頭」は文字通り「頭を水に沈める」という意味でした。しかし、この行為から次のような連想が生まれたと考えられています。
・頭を水に沈めると、視界が水中に限られ、周りの状況が見えなくなる
・つまり、ある一つのことに集中する状態になる
・そして、そのことだけに熱中し、夢中になってしまう様子
つまり、「頭を沈める」行為から、周りが見えなくなり、ある一点に意識が集中する状態を連想したため、「夢中になる」「熱中する」といった転じた意味が生まれたと考えられています。
水に沈むと視野が狭くなり、それ以外が見えなくなるのと同じように、何かに夢中になると他のことが手につかなくなる、という共通点があるためです。
このように、もともとの文字通りの意味から、状況の類推によって別の意味が生まれる、というのは言葉の歴史の中でよくあることなのです。
Q
それでは、集中していることを意味すると言うより、視界が狭くなって見えなくなるという意味合いの方が強いのですか?
A
はい、その指摘は的確だと思います。
「没頭」という言葉の意味合いを考えると、単に「集中している」ということよりも、「視界が狭くなり、周りが見えなくなるほど熱中している」というニュアンスの方が強いでしょう。
理由は次のとおりです。
1. 語源が「頭を水に沈める」ことから来ていること
2. 水中では視界が狭くなり、周りが見えなくなること
3. それが転じて、熱中し過ぎて周りが見えなくなる状態を表すようになった
つまり、「没頭」には「単なる集中」だけでなく、「周囲が見えなくなるほど夢中になっている」という強い意味合いが含まれているのです。
現代でも、「没頭している」と言うときには、単に集中しているだけでなく、それ以外が手につかないほど熱中している様子を想像します。
ですので、あなたの指摘どおり、「没頭」には「視界が狭くなり周りが見えなくなる」というニュアンスが色濃く残っていると言えるでしょう。
Q
仏教用語にあるとネットで見たのですが、本当ですか?
A
はい、「没頭」は仏教用語としても使われています。
仏教においては、次のような意味で用いられています。
1. 煩悩(bonnō)に没頭する
→欲望や執着に囚われ、夢中になってしまう状態を指します。
2. 三昧(さんまい)に没頭する
→瞑想や悟りの境地に夢中になり、入り込む様子を表します。
特に禅宗では、「没入」「専心一つ」という意味で「没頭」が使われることが多いようです。
禅の修行において、一つの対象に心を集中し、他のことが手につかないほど熱中することが重視されます。この状態を「三昧に没頭する」と言い表すのです。
つまり仏教用語としての「没頭」は、良くも悪くも、何かに心を奪われ熱中してしまう状態を指し示すために使われています。
ですので、一般的な「夢中になる」という意味だけでなく、仏教的な高次の意味合いも併せ持つ言葉だということができますね。
Q
その説明でいうと、「煩悩に没頭する」は良くない合いで、「三昧(さんまい)に没頭する」は良い意味合いのように感じたのですが、どちらも没頭という言葉を使っています。没頭とは良い意味合いなのですか?それとも良くはない意味合いなんですか?
A
非常に興味深い指摘です。「没頭」という言葉自体には、良い意味合いも悪い意味合いもありません。
「没頭」は、単に"何かに夢中になり熱中する"という状態そのものを表す言葉です。その対象が何であるかによって、評価が分かれるのです。
- 「煩悩に没頭する」場合は、負の対象に熱中するので望ましくない
- 一方で「三昧(悟りの境地)に没頭する」場合は、肯定的な対象に熱中するので望ましい
つまり、「没頭」自体に良し悪しの価値判断はなく、没頭する"対象"によって評価が変わってくるのです。
ですので、「没頭」そのものが良い意味合いか悪い意味合いかと言えば、そういった一概な判断はできません。
状況や文脈によって、肯定的に捉えられたり、否定的に捉えられたりする、ある意味で中立的な言葉なのだと言えます。
要するに「没頭」には価値的な前提はなく、熱中・専心する"状態"そのものを表す言葉であり、どの対象に没頭するかによって意味合いが変わってくるということですね。
A
没頭とはとういうときに発動するのですか?
前者は受動的に没頭してしまう、後者は能動的に没頭する、という感じがするのですが、じぶんから没頭しようというのはなかなか難しそうな気がします。それらのことについて、なにかアドバイスをお願いします。
Q
非常に興味深い質問をありがとうございます。「没頭」する際の受動性・能動性、そしてそれをコントロールする難しさについて考えてみましょう。
確かに、一般的に次の2つのパターンが考えられます。
1. 受動的に没頭してしまう
例)煩悩やネガティブなものに捕らわれて没頭してしまう
2. 能動的に没頭する
例)瞑想や作業に意図的に没頭する
前者の受動的な没頭は、気づかぬうちに起こり、抜け出すのが難しい面があります。一方、後者の能動的な没頭は、自らの意志でコントロールできる分、望ましい活動に役立ちます。
しかし、あなたが指摘するように、実際には能動的に没頭し続けるのは難しいものです。なぜなら、人間には注意がそれる性質があり、長時間没頭し続けることは大変だからです。
そこで次のようなアドバイスが考えられます。
- 没頭したい対象を明確にする
- 没頭への意識を高める(集中を阻害する要因を排除)
- 没頭からそれそうになったら意識を戻す
- 休憩を適度に入れて、没頭を切り替える
没頭は一過性のものであり、長時間続けるのは難しいと考えられています。上手く没頭とリフレッシュを繰り返すことで、生産性の高い作業ができるでしょう。
受動的な没頭をコントロールするのは一層難しいですが、自覚を高め、意識的に注意をそらすトレーニングを積むことが大切です。没頭は心の戦いでもあり、意志力を鍛える良い機会でもあります。
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claude3 sonnetとこのように対話を続けていると、あるところから「非常に興味深い指摘です。」と言うようになる。今回以外でもこういう指摘をされることがある。claude3のくせなのかな。
こうやって会話を続けていくと、没頭という感じでの語源からはじまり、没頭の意味について考えてみて、いまじぶんが思っていることに重ねてみる。そうすると、没頭から集中という言葉につながった。いやまあ最初に没頭は集中って意味だよとは言っているから、そうつながったんだと思うんだけど、没頭することと集中することの具体的な関係性に迫れだと思う。「没頭する」の視野が狭くなることが集中するということにつながるし、集中することで没頭できるということを感覚的に理解しやすくなる。ここから考えることは、集中力をつける、ということに考えを深めていけそうだ。マインドフルネスにも繋がる。当たり前のようだけど、じぶんが頭の中で思っている没頭と集中の言葉から連想するものが、こういう対話をすることでちょっと角度を変えた視点から捉えることができる。見えない何かに追い立てられるような怯えるようなこの現代社会で生きていくための考え方にも当てはめられるかもしれない。没頭したいけど没頭できないというこの現実。そのなかで思い浮かんだ「没頭」「集中」という言葉。現実とはいったん切り離して言葉に対して向かい合う。そうしたらいつのまにか、現実とのつながりに気づく。いろんなものが、いろんなところで、関係あるものも、関係ないものも、意味があったり、意味はとくになかったりして、どこかで、繋がっている。そういう不思議さがあっておもしろいね。
没頭したくても集中したくてもできない。スマホとか触ってると集中力がどんどんなくなっていくらしい。XをみていたらLINEをみたくなって、少ししたらYouTubeを見たくなる。やめようとおもったらXのアイコンが目に入ってまたXを見る。それぞれへの意識を切り替えることをスイッチングというらしいんだけど、スマホはそのスイッチングが激しいみたいで、それによって集中することができなくなる。集中ができないというのは、我慢することができないということにも繋がる。自分とは考え方がちがう人と会話するとき、相手の意見を聞くという耐えができないから、相手の話を聞かなくなる。すぐに答えを出そうとするようになる。そうなると、自分と話が合う人同士でしか会話をしなくなって、お互い強い言葉を言い合うだけになってしまう。話し合いってお互いがどこかである意味妥協し合って、落とし所を見つけることだと思っていて、みんなが完全に納得するのはなかなか難しい。この現代社会、みんな集中がなくなってきてるんじゃないの。没頭→集中ときて、ここでは耐えるということに繋がった。これは没頭、集中、耐え、が順番に並んでいるわけじゃなくて、相互に関係し合っている。当たり前だと思っていうことは思考停止する。当たり前のことを考えるなんてしないから仕方ない。でもこうやってよく考えてみると新たな発見があるなあとも思う。人間は色々なことを考えられる脳になっているから、制約をかけて行動の効率性を高めているらしい。だから当たり前のことが存在する。じぶんではなかなか気づけないこの「制約」を解きほぐせると、また違ったものが見えるんだろうな。
ここからまた広がっていくけどこの辺でやめとこうかな。やることあるし。没頭してそれだけしか見ていないんだけど、だからといってなにも考えていないわけではない。けど大枠はあって、その枠がどうやって作られているかがポイントそう。枠っていうのは価値観ことだね。だれかの価値観じゃなくて、じぶんの価値観をつくる。ひとそれぞれ自分が良いと思うものとよくないと思うものが違う。だから価値観みたいなものはそもそも存在していて、そが見えていないだけ。その価値観の元となるものがじぶんのなかに存在しているから、それをじぶんで触りながら価値観というものを作っていく。そんなイメージ。じぶんの価値観の中で考える。けど、それと同時に、よくわからない不気味で不安も感じる何かも取り入れることで、また新しい、今までにはなかったものに出会える。あまり考えずにやることは、考えずにただ指示に従うのと似ているけどわけだけど、恐怖に怯えるような脅迫性みたいなものではなくて、ただ興味に従って動くだけ、そういう軽さ。そして現実は現実なわけでどこかで区切りをつける必要がある。だからできるところはやるし、できそうになくなったらやらない。そういう軽さもある。やらなくなっても、ただ放棄するというよりかは、また余裕ができた時というか、また気が向いたらというか、機会があったらというか、そういうまた繋がれるという軽さもある。なんかこれって、生活だなあと思った。生きる活動。ご飯を食べる、食器を洗う、遊ぶ、寝る。夜更かしする。早寝早起きするのがいいしそうするんだけど、夜更かしすることもあるよねって。出かけなきゃいけないからきょうの昼飯は簡単にしよう、これもできる限りのことはやるという感じだし。生活について、また今度考えたい。
そんなことを思いながら、カードの請求日のきょうをなにもできずにいたのである