語れるものがない

みんな何かしら語れるものがあるように思う。お酒に合うつまみ、推しアイドルの魅力、その曲の歌詞から感じたこと、生活をしているとたまに出会う気をひいてくるものもの。そういう話を隣で聞きながら、羨ましいなあと、心の中で思った。自分には語れるような話がない。何かを体験したとき、無意識に出てくるような感情がなんとなくはあるのだけれど、具体的にどうというものがでてこない。どうしてなんだろう。ここまで書き出して今この問題に気づき、今その原因を考えてみた。そしたら悩むほどの時間を要さずその理由がわかった、かもしれないのでとりあえず書き出してみようと思う。原因として4つ思い浮かんだ。

まず一つ目は、そのものものを見れていないということが挙げられる。たとえば飯を食っているとき、同時にテレビやYouTubeを見ている。もともと食に対して関心があまりないこともあって、意識のほとんどが視覚情報に気を取られてしまう。そうすると食感や香りに対する意識が疎かになってしまい、意識という枠に入ってくることがないために意識のしようがない。

二つ目は、記憶力がないために考えることができない、ということがある。考えるためにはまず、頭の中にいくらか情報が溜まっていなければ、まず考えることができない。何も描かれていないパズルがあっても組み立てようがないし、ピースがあっても形があやふやでははめることすらできない。

三つ目は、じぶんの意識が弱いこと。意識が常に受け身。受け身というのは流されているだけ。流されながら得られるものも多少はあるけれど、そのほとんどは止まることなく離れていく。受け身の意識は弱い。だからそういう姿勢で意識しても、得られるものは少ない。

四つ目、上記の記憶力と意識の弱さによって無意識下の学習能力が圧倒的に低いということも十分考えられる。人は能動的に意識をしなくても、なんとなく覚えていたり感じたりするものがあると思う。そういうオートで機能している学習能力が極端に低くため、意見がほぼないという状況を生み出している。

ここまで書き出すと対処法も自ずと出てくる。前から自分の意見がないなあとは思っていてたけどここまで考えたことなかったな。やっぱり文章にすることは思考することで、思考するためには文章にしなきゃ始まらないということがよくわかる。それじゃあ俺はこれからどうしていけばいいのか、自分に向かってアドバイスしてみよう。

自らの意志で積極的に意識することが大切。なにかをしているときにただぼーっとするんじゃなくて、気になったことを意識を向けてみる。視野を広げてみようとか、そういうことは考えなくてもいいかも。何か一つに意識をむけることができれば、そこから自然と広がっていくから。記憶力が弱くても、能動的に意識することで頭に残り、そうなれば思考もできる。

最近読書をするようになったんだけど、読書を始めてから記憶力が上がっているように感じる。本って読むのすごく時間がかかるんだよね。そうするとちょっと前の内容を忘れるから、戻って読み返すということが度々起こる。そうすると、頭に内容を留めておこうという無意識と、繰り返して読むことによる記憶の定着によって、記憶力が上がるんじゃないかと、そんなわけ。

こうやって文章に起こすこともまた、記憶力向上に貢献していると思う。自分の思っていくことを思い浮かべ、そこからそのイメージに合う言葉を選んでいく。思い浮かべ続ける必要があるから、これが頭に留めておこうという無意識が働く。そしてそれを浮かべた瞬間に想像したことや出来事を具体的に思い返す行為、その瞬間を何回も思い起こすことで追体験することで感じたことを言葉にしていける。

自ら意識すれば頭に止まる。頭に残っていれば思考ができる。それを文章に言語にすることで思考が進む。その過程には繰り返して思い起こす行為があるから、記憶に定着する。よって話ができるようになる。すごい、完璧だ。ほんとはここからさらに深掘りしていきたいんだけど、酒が回ってきたのでこのへんでおしまいにしたい。

普段から能動的に意識を向ける。いろいろ意識する必要はなくて、何か一つについてなんとなく考えてみる。語れるようになれるかな、語れるくらい楽しめるといいな。

@orznahi
推敲してないです、