興味がないとは何か。どんなことでも何かしら興味はあるものだと思っていて、原理的にはそうだと思うのだけれど、言葉というのはその場によって意味が変わるもので、そういう意味で俺のなかの興味という言葉は、原理通りで興味は何にでもあるものだと思っていて、だけど今たまたま学生のころの行事の後にある感想文を書くやつで、なんにも思いつかなくていちばん最後に提出していたわけで、それについてなんとなくどうしてなんだろうと考えてみたら、ひとそれぞれ何かしら好き嫌いがあるから、行事を受けたときにその行事に対してじぶんの好き嫌いという評価軸で批評しているから意見が出てくるんじゃないかと思って、それでいうと俺は好き嫌いがあまりないというか、好き嫌いという言葉で捉えてなくて、嫌いなものを「嫌い」という言葉に当てはめずにただ遠ざけるという姿勢をとっていて、だから好きとか嫌いとかよくわからないわけで、好きなものは近く、嫌いなものは遠くに、ただそれだけ、つまりおれは多くのものに興味がないってことなのかもしれないという結論なわけで、何も思いつかないということは興味がないということなんだろうね、いや、それもあるけどそうじゃないこともあるか、逆に何か思うものがあったとしても言語化がうまくできないときもあるから感想という、感じる想いはあるってことで、言葉にはまだできていない状態という感じなのかな、そもそもこのよくわからないもやもやとした感情を言葉にするってどうやったらできるんだろう、感情を言葉にするメカニズムがよくわからない、おれは言葉を単に情報として扱ってるだけで、その言葉と感情の意味がリンクできていないから言葉ならないのかも、たとえばラーメンを食べて美味しいと思って、でもその感覚を「美味しい」という言葉に当てはめようとしないと、この感覚はあってもこれをどう言葉にすれば良いのかわからないというふうになるわけで、そうなるとその瞬間の感情と言葉をリンクさせる必要があるね、これは非常にむずかしそうだ、みんなの思っている感想というものはむずい、だって小説を読むことで語彙力が増えるとかなんかよくきくけど、小説で描かれているものの多くは情景描写で、たとえば「彼は悲しんだ」とは書かずに「彼は涙を流した」のように目に見える景色が書かれているし、心の中の表現はどくとくな表現で、それはひとそれぞれ感じ方が違うからじぶんだけど表現になり、誰でも理解できるような客観的な言葉にはならず、その表現を読むと直接的な言葉を使っていないのに感情が伝わってくる、ていうか、むしろ、直接的表現じゃないほうがより感情が伝わるよね、そうなると感想文を書くというのは他の人にはよくわからない、読めない文章ができあがるはずで、感想文らしい感想文というのは形式的なもので、そういう形式を楽しむのもので、純粋的な感想を求めているわけではないということなのか、ほかのひとに読ませる文章で、ほんとうに自分が思っている文章なのか、でもほんとうの思っていることなんてものはそもそも存在しないはずで、〇〇ではない、△△でもかく、××でもないんだよなと、否定神学的な捉えようのないもので、だとすると、どこかで一時的に、〇〇としてみる、ということをする必要がある、今までずっとどれがどうなんだろうと当てはめることなく浮遊したままで、だから言葉にもできず、なにもなかった、必要なのは一時的にあてはめてみて、でもそれは一時的なもので絶対的なものではなく、もっといい言葉をみつけたらヤドカリに引っ越しのように新しい言葉を受け入れる、知識の更新、アップデートするものだという姿勢が、言葉にすることに繋がるのかもしれない、そしてそもそも文章にするというのは、形式を楽しむもので、小説もそうで小説は文体とかも言うし、形式って聞くと空っぽなイメージになっちゃうけど、そうでもなくて、その形式が楽しものなんだ、自分の純粋的な文章があるとして、それはそもそもじぶんの根源がデコボコしていて、だから自分の意識では純粋的なんだけど、周りから見るとデコボコがそのまま純粋的にでてきて、それがその人の形式として形になる、あとは純粋とかそういうのではなく、どんな形式だと面白いか、そういう視点で形式を考えてみて、文章にする楽しみ方もあって、これは楽しい遊びだったんだね。