小6の頃、小学校の図書室にあるホロコーストに関する本を片っ端から借りていた子供だった。ラウル・ワレンバーグとアンネ・フランクの伝記なんか複数回借りた。気持ち悪いとか言わないでくれ。いややっぱ言ってくれ。普通に怖いそんな小6。
何にそんなに惹かれていたのかいまだにわからない。人間がどこまで残酷になれるのか、極限状態の人間の心理、異常な世界を目の当たりにするスリル。その中に現れる一筋の光としての英雄たち。そのどれかか、そのどれもだったかもしれない。
そんなこんなで、人間の心理について言及しているものを読むと、私はだいたいホロコーストにおける収容者の反応を思い出す。
強制収容所に連行された母親は、解放後も子供が泣くことを恐怖し、少しでも泣き声をあげると異常に反応したそうだ。
そうならざるを得なかったのだ。少しでも目立てば殺される環境にいたのだから。
私は子供心にその泣かせてもらえなかった子供が大人になった世界を思った。
「泣けない大人たち」が築き上げた社会は、それ以前の社会とは全く別モノになってしまうのではないかと。
今イスラエルのニュースを見て、それを改めて思い出している。
話は変わり、ちょうど今〈叱る依存〉が止まらないを読んでいるんだけど、叱りの悪循環について書いてある興味深い箇所があった。
叱られることで生じるネガティブな刺激は、弱いモノだとすぐに慣れてしまい効果がなくなってしまう。
すると叱る側は叱ることで得られる快感が得られなくなり、さらに強く叱るようになる。
強い刺激を与えられた側は一転、些細な刺激にも反応するようになってしまう。鋭敏化というらしい。
強制収容所の環境と家庭は違う。全然違う。なんなら強制収容所にも家庭にも同じ環境のところはない。でも、刺激の強度や状況の違いはあれ、人の刺激への反応には普遍性がある。歴史から学ぶ意義はそこにある。
まとまりはないけれど、多分今私はそんなことを考えている。
なんのはなし?