幼い頃はともだちって「ともだちになろー」みたいな一声ではじまるこどが多かった気がします。それだともう「ともだち」になる前提ではじまった関係なので「ともだち」だよーってすんなり心の中の枠組みに入れることができていたんですけど、大人になってくると、友達になりましょうよ!みたいなはじまり方ってもっぱら無くなりました。ある方もいらっしゃるかもしれないから無い!と断言もできないけれど、私は無いです……おい!それって友達が少ないからでは?て思った人、手を挙げてください。なるほど、ね……。いいですよ、あってるから……!
ブルスカをメインに動かしていこうかな〜と思った時に、相互でつながるのはともだちだけにしよう!と思い、それ以前にもう相互になっていた人たちは勝手にともだちということにして(こわいよ…)あとはわりと、人からのアクションを求めていた節があります……。
じぶんがそうだから、なんですけど、人間性は好きでも、つぶやいてる内容の波長が合わないとかは全然あると思うので、こういう時に結構受け身になりがちです。いい風に言えば、選択を相手にゆだねられるのかな。でも私があんまりよく考えず、相互はともだちのみ!て書いてるせいで、じゃあつながってないのはともだちじゃないってこと!?ってつっこまれて(明るい感じでですよ!)たしかに、そうだな……と思いました。そんなつもりはなくても伝わらないことってままありますよね。会って話していてもそうなのに、文字だけだと余計にその人の内心、というのはわかりにくいよなあと、改めて自覚しました。
なのでね、改めて意識表明をします!
勝手にこっちがともだちと思ってる可能性とか、喧嘩したわけじゃないけどハマってるものとか、ジャンルが別れた時に自然と話さなくなったりとかで、気づけば何年も話してないとか、そういう年月が生み出す距離感があると、ただこちらから近寄り辛くなってるだけで。
でも普通に、自分が関係性を維持したいとかずっとお話ししたいとか思ってるなら、みずから動くべきだなあと思いました。相手からのアクション待ちだけをするのは、結局のところわたしは傷つきたくないだけなのかもしれません……。
まえの日記ツールの中でさらっとふれてたんですけど、わたしは疎遠になっても、どっかで元気にしてたらそれで嬉しい!って感じが多くて、こちらとしては一方的につぶやきとかで生存確認するだけで満足してるので、元気かな、大丈夫かな?と思っても、距離が離れていた年月的に、いま突然連絡しても、何急に!?てなったりしないかなとか色々考えて、結局遠くから見てるだけ、だったりしてます。むしろ基本的にそれだけしかなくて。そりゃインターネットにずっといるから、よくないやり取りな感じで終わってしまったひとたち、とかももちろんいるんですけど、その時は怒りを感じることがあっても年月が経てば怒りは癒えてくる、ことが多いです。というかその喧嘩みたいなことになった出来事について怒ってるだけで、別にその人を構成するすべてに対して怒ってるわけじゃないことが多いので、ふとそれが沈静化したとき、もう前みたいに喋ることはできないかもしれないけど、元気にしてるかなあってぼんやりその人のことを思いうかべたりします。
価値観の違いでぶつかりあって、疎遠になってしまうこともあったけれど、仲が良かった期間があるのもまやかしではないから。ぶつかりあった時の怒りがしずまったら、残るのはそのともだちと仲良くしていたという事実だけです(と、信じたいだけなのかもしれないけれど)
だから、元気にしてるかなあって思いを馳せたりします。
いい風に書いてるようにみえて、未練がましいやつにしか見えなくなってきて怖くなってきました。これが創作の中だったりするとアガベ(無性の愛)だ!と思って大好きなのに、創作だから素敵だと思えるだけで自分が言ってたらちょっとこわいですね………
なんだろう、つまり わりと何回かあって、会わなくても通話を繰り返したりしてるうちに、わたしの中ではともだち認定されてるよーって話です。
こわい話か?