ネタバレがあります。
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犬を目当てに観に行ったのに、人で泣きました。
リュック・ベッソン監督の映画のためクライム・サスペンス、アクション寄りでフィクションとして楽しめるのかなと思っていたのに、家族から虐待を受けた人間のその後生きていく上での葛藤などが、もちろんフィクションなのだけれどもその葛藤がリアルに感じられ、辛くてしょうがなかった。
犬は愛情をかけた分愛を返してくれる。少なくとも人間はそう感じられる。だけど人間は、心になにか問題を抱えている人間だけでなく、どんなに優しい人でも同じ分の愛を返してくれるとは限らない。
ダグラスが悪いのか? もちろん窃盗や犬への殺人の指示は人間社会で生きていく上で悪いことだ。
でもなぜダグは檻の中で生活しなければなかったか? なぜ脊髄を損傷して歩くことが困難になったか? なぜ学位も持っているのにそれを活かすかそうでないかに拘わらず働く場所がないのか? それらはダグが悪いからか? ダグ以外の人間や社会が悪いからじゃないか。そういった困難にあるときに彼を癒やしてくれるのは犬だけだったではないか。
そう思えたので、ドラァグクイーンとしてデビューしたシーンでまず涙が出た。あのとき後に仲間となる他のドラァグクイーンや演出家の助けがあったから、週に一度金曜日だけでもダグは輝いていたのだ。
だから、せっかく他の人間の助けにより自分が輝ける場所が見つかったのに、愛する家族である犬に指示して犯罪に手を染めていく過程が悲しかった。
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全体的にキリスト教徒の心情が前提になっていて(どんな悪人も神を信じている)、最後の演出は無宗教の自分からしたら流石にベタベタではあった。
とはいえ、脊髄を損傷し歩くたびに髄液漏のために「死に近付く歩みだ」という歩行によって神に向かっていく最期の様は、愛した犬たちにその手助けをさせたことも相俟って、本当に辛く、苦しかった。彼には愛する犬と愛せない神しか頼るものがなかった。家で観ていたら声を上げて泣いてしまっていただろう。
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彼の半生を訊く精神科医のエヴリンの生活の描写は、邪魔にならない程度にスパイスとなっていて良かったと思う。エヴリンの生活だって困難がつきまとっているのだけれど、ダグの人生の非情さに比べれば当たり前に生きる私達寄りで、それでも「痛み」を知るものとして彼の話をきく主体として良かった。
ギャングたちの描写はちょっと御都合主義ではあったし、富豪からの窃盗も「富の再配分」と言い訳するがなぜそんなことを?とも思った(それがなければ保険外交員を殺すこともなかったし)。
ただ、主演のケイレブ・ランドリー・ジョーンズの演技は素晴らしかった。軽い語り口で半生を話したり冷めた目で人と会話したりするかと思えば、恋い慕った演劇の先生サルマと再会したあとの慟哭やラストシーンの神への叫びなど、爆発的な感情の表現も素晴らしく、また、ドラァグクイーンとしてオールディーズを歌うシーン(家で口ずさむ程度でも)は人間としての色気があり、稀に見る良い役者であるように自分は感じた。
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ダグにとって救いのない物語ではあった。しかしエヴリンには伝わった。自分にも伝わった。現実の事件で、怨恨ではない「誰でも良かった」というような理由で罪を犯す人間が少なくなるような社会にしなければならない。犬はかわいい。大好きだ。愛情を与えれば人間を助けてくれる。私達に寄り添ってくれる。だけど、人間の社会で生きていくには人間の愛情や助けがなければいけない。
…そういった意味で、ミッキー始めわんこたちがかわいくて健気でたまらなかったけど、飽く迄人間がどう生きていくかということしか今は考えられない、そんな映画でした。