短い読み物ではあるが、久しぶりに吉本ばななの文章を読んで、やはり苦手だと思った。
なぜ「お別れのチュウ」をするの? お別れのチュウという現在でははどの年代も使わないような陳腐な表現をなぜ使うの?
日常的な情景を描写しているようにみせて、なぜ登場人物がいきなり非現実的な言動をとるの? そして、その後また当然のように日常的な情景を描写するのはどうして?
彼女の小説はキッチン(正確に言うと、角川文庫版に所収されているキッチンとその続編のふたつ)しか読んだことがない。私が幼少の頃のベストセラーということで学生になってから最後まで読んだが、主人公の言動について、上記の短い読み物の主人公と同様の不可解さを感じたことを思い出して、この文章を書いている。
陳腐、非現実的、不可解――これらの言葉を使って自覚したのは、吉本ばななが描写する世界の主人公について、仮に実在していたら相容れない、近付きたくないという感情を持つタイプであると、私は思っているということだ。
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ではなぜ相容れないと思うのか。
ナルシシズムだと思う。生活に舞台表現を持ち込むようなナルシシズムを感じている。
上記の読み物で言えば、主人公は、事故で植物状態になった同級生(中学生当時、特別のようなそうでないような感情を持っていたが、卒業以来会っていない程度の同級生)に対して、同級生の祖母がいる前でこう言うのである。
「伊藤くん、私なんかで申し訳ないですけれど、私があなたにお別れのチュウをします。どうか受けとって。」
挙げ句、同級生の祖母はキスをした主人公に「なぜか拍手をしてくれた」。
主人公が余りに主人公であり過ぎるのだ。演劇の舞台で少し離れた周りに脇役を従えて、ひとりスポットライトを浴び独白しているかのよう。そのような独白は現実の社会ではやらない。
現実にはやらないような役者的振る舞いの人間が、現実の社会で一般的な存在として生活している描写に、過剰な自己陶酔を感じてしまう。そのナルシシズムを描写するならば、せめて、少しズレている人物にするか少しズレている社会を背景にしてほしい。しかし、少なくとも上記の読み物やキッチンの主題はナルシシズムではなく、いろいろあるけど日常を生き抜く一般的な人間の生活なので、そんなズレた人物や社会が設定されることはない。
このナルシシズムとちぐはぐさを感じてしまうと、吉本ばななの小説は読めないのである。
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陳腐、非現実的、不可解――というのは、私の考えを基にした表現であって、他の人からすれば、斬新、現実的、理解できる描写なのかもしれない。ベストセラーの小説をいくつも発表しているので、後者の理解をしている人のほうが多いのは確実だ。
自分が好きなものを否定的に言及されることは不愉快に思うものなので、否定的な意見を公にするのは避けるべきとと考えるし、これまでそうしてきた。
しかし、否定的な意見そのものというより、その意見を持っている理由を説明してみるのはありかもしれない。結論には同意できなくても、その理由や考えの経緯の一部分はなるほどと思える経験があったので。よって思い切ってこの記事をオープンにしようと思う。
しずかなインターネットで、初めて「みんなに公開」する記事がネガティブなものってのもどうかと思うけど。