僕は恋愛映画が苦手だ。だいたい男女が喧嘩して、仲直りして、最後はキスをしてハッピーエンド。その先は描かれていない。そりゃそうだ、創作物の中でくらい幸せになりたい人は多い。
もちろん現実はそうじゃない。恋愛は、いつか別れて終わるか結婚して死ぬまで一緒に暮らすかの二択じゃないか。一番美味しいところだけというわけにはいかない。
ただその時に愛せる誰かを必要とすることは、相手に対して不誠実なのだろうか。僕には分からない。
高校生一年生の頃、僕は映画研究部に入っていた。将来は映像で食っていきたかったし、高校生のうちに一本くらい短編映画を撮りたかった。
三木先輩は三年生だった。髪と手足が長く、美人と呼ばれるタイプではないけど人を引き付ける、意思の強い目をしていた。僕たちはよく部室で映画の話をした。
「オスカー・ハートJr.はケレンベック監督と相性が良いですよね。」
「そうだね。『マーキュリー・ダイアリー』でも『西日の射さない窓辺』でもかなり表情の見せ方がうまいと思う。」
「そうなんですよ、表情のアップのカットはかなり多いですよね。マーキュリーは象徴的なカットが三回あるんですけど、よく見ると目の中に写る人影が順番に減ってるんですよ」
「そうなの?よく気付いたね」
三木先輩は僕のやや踏み込んだ話も楽しそうに聴いてくれた。お互いに映画のDVDの貸し借りもしたし、よく一緒に電車で帰った。
「そろそろ言うことがあるんじゃない?」
三木先輩にそう言われた時、僕は本当に何のことかさっぱり分からなかった。
「え?」
「そろそろ付き合っても良いんじゃいかってこと」
多分あの時の僕は馬鹿みたいな顔をしていたんだろう。先輩はけらけらと笑った。
「あの……先輩、付き合ってもらえますか」
「よし、合格」
先輩は上機嫌で僕の頭を撫でた。僕は先輩の恋人になった。
正直、恋愛感情とかはよく分からなかった。先輩と話すのは楽しい、ただそれだけだった。それでも、家に帰る頃には自然と笑えてきた。恋人!生まれてこの方彼女がいたことのない僕に!自転車を漕ぎながら鼻歌を歌ってしまった。母は
「なんかご機嫌ねぇ」
そう言って笑われた。
その週のうちに、僕が先輩と付き合ってることは完全に広まった。
「やるじゃん白井、先輩にコクるなんて」
友達の達也に言われて、僕は面目なく赤面した。
「優しそうな人じゃん」
「うん。趣味も合うんだよ」
達也にからかわれた時も、悪い気はしなかった。昼休み、図書室前の廊下の長机で先輩と駄弁っていると先輩の女友達が近くに座り、にやにやしながら僕たちの会話を聴いていた。
さすがに居心地が悪くなったので、僕はさりげなく帰りの電車で先輩に漏らした。
「みんなに僕たちが付き合ってること言ったんですね」
なるべく、非難しているように聞こえないように言葉を選んだ。先輩は不機嫌になると口をきいてくれないから。
「え、まずかった?」
先輩が小首を傾げた。
「いや、その、ちょっと恥ずかしいなって思って。」
「ユウカたちのこと?ごめんね、明日言っとく」
正直に言うと、あの好奇の目に対して抱いたのは居心地の悪さだけではなかった。誇らしさみたいなものもあった。ほとんど誤解なのに、同じ学年の男子の中では僕は"先輩をオトした"ことになっているらしく、こんな僕にやいやい色々訊いてきたりした。
僕はよく分かっていた。先輩は僕以上にその視線を楽しんでいた。でもそんなこと、別に悪いことじゃない。
僕にとっての驚きと発見は、愛してもいい人がいるという喜びだった。どんなに辛いことがあっても、僕には三木先輩がいるのだと思えば何てことはなかった。先輩と遊ぶためにバイトだって頑張れたし、先輩の好きそうな映画のDVDをプレゼントするのが僕の喜びだった。友人相手だとキモイかなと思ってしまう愛情表現も、恋人のためであれば上限がない気がした。先輩が呼べば、僕は夜中でも会いにいった。それが幸せだった。
ある日、カラオケで先輩に押し倒された。
「ねぇ、キスしないの?」
囁かれて、僕はまた頭がパンクした。なんか、違う。咄嗟にそう思った。
「あの、そういうのはお互いに成人してからにしましょう、ね!」
やっと出た言葉がこれだった。
「それにカラオケって防犯カメラついてるんですよ!やめた方がいいですって」
先輩は少しの間うらめしげにこちらを見下ろしていたが、諦めてマイクを手に取った。気のせいか、その日は少し不機嫌そうだった。
手を繋ぐのすら抵抗がある僕にはあまりにハードルが高すぎた。ましてや……その先など。想像しなかったわけではないけれど。現実は想像のようにはいかない。
受験が近付くと、先輩は苛立ち始めた。
「なんで離れてるの」
電車の中で先輩は、単語帳を片手に不機嫌に言った。
「邪魔しちゃ悪いと思って……」
「ふーん。私のこと嫌いになったのかと思った。」
先輩はそう言って単語帳に目を落とした。僕は居たたまれない気持ちでどうしようもなくなっていた。その数日後、先輩から電話で素っ気なく別れを告げられた。
僕が高校を卒業して無事大学が決まった頃、友人伝いに先輩から電話が掛かってきた。
「久しぶり。元気してた?」
「あ、はい。大学決まりました。」
先輩の声を聴くと、懐かしい気持ちになった。同時に、それ以上の気持ちは起きないことにも気付いていた。
先輩は僕と別れた後で二人の男性と付き合ったのだと言った。一人は社会人で、もう一人は同じ年。
「でも映画の趣味も合わないし、優しくしてくんないから別れちゃった、あはは。ねぇ、祐希はどうなの?」
僕は、うっすらと気付いていた。これは翻訳すると、"何か言うことがあるんじゃないの?"という意味だ。
「……はい、彼女いますよ」
そう嘘をつくと、明らかに先輩の声のトーンが落ちた。電話が切れた時、僕はもう先輩は電話をしてこないだろうと分かった。先輩は、プライドが高い人だから。
あれからも僕には彼女がいないまま。愛する喜びを懐かしみながら、それでも僕が愛していたのは果たして先輩なのか自信が無いまま、愛したいという漠然とした願望だけを抱えている。