2024年3月の日記

papertower
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3月26日

火曜日は早く帰れることが多い。帰りの時間は雨風が強くて雨宿りも兼ねて最寄駅の定食屋で食べる。隣のベローチェに移動して閉店時間まで読書した。少し前のことだが、都内に住む祖父のパソコンの調子がわるいということで見に行き、古いパソコンなので買い替えることになった。電気屋での商品選びから初期設定まで泊まりがけでサポートしたのだけど、僕は割にこういう作業が苦にならない。わからないひとに教える。説明してもわからないことをポイントだけかいつまんで伝える。あるいはそのひとがそれによって何がしたいのかを聞き取って、そのためにどうすればできるようになるのか、やり方だけじゃなくて最低限のしくみも理解してもらえるように誘導する。祖父にはフォルダの階層構造も、画面上のフラットなボタンのデザインも、電子決済もワンタイムパスワードも、パソコン本体とインターネット回線のちがいも腑に落ちて理解できない。こういうひとを相手にしていて苛立ってしまうひともいるだろうけど、僕はそういった不毛なやりとりに豊かさすら感じてしまう。自分はスマホもパソコンも持っていてSNSや検索エンジンその他便利なインターネットツールを自然に使いこなしているけれど、世の中にはそういったのについておなじようにごく自然に関心を抱かないひとたちがいる。そのようなひとに出会うと、生活圏や交友関係が自分とは離れているとまずはおもうのだけど、さらにそのひとたちと話していると、同じ時と場所で暮らしていてもまるで見ている景色がちがうのではないかと思うことがある。祖父母の家からの帰りに渋谷のユーロスペースで『すべての夜を思いだす』という映画を観て、そこにはスマホを持っていても道に迷ってしまうひとがいた。インターネットにつながる前の、単純に物質的で、色彩豊かな、バスの車窓を流れる街路樹だと思った。インターネットにつながれていないひとたちと話すことでしか、インターネットにつながれていない時間は得られないのかもしれない。その翌日にポレポレ東中野で観た『フジヤマコットントン』という映画にも、そういう時間があった。

3月23日

祖父の33回忌を兼ねた墓仕舞いに同行する。中学1年のときに東日本大地震があってから、それまでお盆に毎年行っていた福島に行かなくなり、高校生のときに一度父親と墓参りに行ったはずなのだけど、そのときのことは相馬のビジネスホテルの朝食を食べたという朧げな記憶しかない。新地駅にできた新しいホテルに泊まり、翌朝、祖父の墓地に集まる。94歳だという祖父の兄(父の叔父)は、足元がおぼつかなく両脇を娘(父の従兄弟)二人に支えられてやっとゆっくり歩けるくらいなのだが、頭は相変わらず達者なようで、きつい福島弁でよく喋るのだけど半分くらいしか聴き取れない。名前も関係性もわからないおじさんたちも何人かいて、煙草を咥えながら杉林から枯れ枝を集めて焚火を燃やしている。お坊さんがお経を唱えて皆順番に墓前に線香を供え手を合わせていく。親戚の一人だと思っていたアイコスを咥えていたおじさんが実は石屋さんで、墓石を動かすと地面に直にお骨が盛られているのが見えた。それをスコップでかき集めて白い布袋に入れると、からからと乾いた音がした。線香の煙の中で、お経と木魚の淡々とした響きの中で、目を瞑って手を合わせていても、祖父はどんな人だったのかという漠然とした質問を繰り返し唱えているだけだった。いつか聞いてみたいとおもっているのに、車の中でも家に帰っても、どうしてか祖父についてのことを祖母にも父にも聞くことができなかった。かつて福島に来たときの記憶を探ってみても、再従姉妹のお兄さんの部屋で延々とストリートサッカーのゲームを遊ばせてもらっていたことくらいしか思い浮かばない。テレビにもインターネットにも、知ってどうなるというニュースや知識が、恰も知っていれば得をするというように流れてくる。祖父がどんな人だったのか、インターネットで検索して知ることができるのなら、片手で簡単に検索してしまうと思う。自分にとってはちょっと気になるというくらいの人について、そもそも誰であっても、聞けば答えてくれるすぐ隣にいる人でも、すべては話してくれないその人のことが本なりインターネットなり、だれかによってどこかに書かれているのなら、まずはそれを探して読んでみようと思う。それがちょっと品のないことかもしれないという感覚はとっくになくなっている。友達も家族も、仕事関係の人も、芸能人も作家も過去の偉人も、皆同じように距離を隔てて存在している。だけれど検索しても出てこないからという理由で、検索窓をエンターキーで叩くように、誰かの記憶の扉を開けるような手つきは、信用できるものなのだろうか。ぼくは家族や友達との会話の中で、だれがどこでどんなことを言っていたというタイプの記憶についての感度が鈍くて、後ろめたさを感じてしまうことが多い。物語というものが、どこか自分とは関係のないところで動いていて、それがむしろ自分を安心させているのだという感覚に後ろめたさを感じながら、そのことによっていつまでも子供。むしろそれを安心させようとしている大人。

3月20日

TOHOシネマズ渋谷でドゥニ・ヴィルヌーヴ『DUNE Part2』をみた。ひさびさに映画館で没入体験、というべきか、しかし物語に没入したのでも、世界観に没入したのでもなく、ただただ次々と現れる画面と音、そして顔に没入していたという感覚。たしかに世界観やビジュアルの作り込みでいうと『アバター』、多世代や多種族に跨る壮大な叙事詩ということだと『スター・ウォーズ』、物語のスケールでいうとMARVELシリーズあたりが思い浮かぶのだが、それらに似ているようでちがう体験。これまで世界観とかストーリーがいわゆるクライマックスとよばれる部分に最大限の効果をもたらすための導入(説明)として機能していたような構造だったものを、クライマックスの重みはそのままにして前置きなく1テンポで持って行けてしまうのは、画面と音、そして顔の総合的な造形・構成から生み出される説得力なのか。やっぱりヴィルヌーヴの映画は「顔」が重要であって、映画全体を形作っているのも、「顔」の造形なのだと思う。前出のSF娯楽大作がトム・ガニングのいう「アトラクションの映画」を継承するものだとして、ではヴィルヌーヴがやっていることはなんなのかというと、「顔の映画」であり「瞳の映画」なんじゃないかと。「アトラクションの映画」を遡るとヘイルズ・ツアーなどに行き着くのなら、「顔/瞳の映画」はたとえば『アンダルシアの犬』に代表されるシュルレアリスム映画を源流としてもよいのではないか。ガニングが物語映画の”窃視的な没入体験”に対して”車窓的な没入体験”によって映画史を再解釈したとすれば、「顔/瞳の映画」は”眼球的な没入体験”とでも呼べそうである。ヴィルヌーヴのフィルモグラフィーを振り返ってみても彼の映画はまさに、形式上は物語映画に則ったものは多かれど、本質的な部分では窃視的な画面構成というより、印象的な顔のクローズアップを多用することで、観客が覗き見るよりも映画から覗き見られている、あるいは覗き返されているような効果を重要視しているように感じられ、これをまさに「眼球的な没入体験」と呼びたいと思う。

3月19日

仕事終わりに上司とご飯を食べた。期待されることにかんしては、居心地のよさと居心地のわるさがある。他人から面と向かって褒められるときに、それが大抵の場合、一般的なフレーズを流用して目の前のひとに当てはめてみているだけだということはわかっているつもりだけど、何パーセントかは間に受けてしまう。面白い人ではいたいとおもうけれど、そこまでこだわりがつよくない。人と人とのかかわりなどは、案外ざっくりしたイメージで進めていかなくてはならず、その場でくよくよしたって仕方がないことではある。色川武大を勧められたので、メルカリで購入した。 

3月12日 火曜日

退勤間近に電話がかかってくる。帰り道で折り返す。まえの仕事で知り合ったO西さんだ。Rakuten Link経由でときどき電話がかかってくる。新橋駅で待ち合わせたO西さんはなんだかガタイがよくなっていたので「なんかガタイよくなりました?」ときいたら「太った。デブ」と言った。O西さんは自分が話した後でぼくが相槌をうたないでいると、「…ていう、ことなんですよ…」と下を向いてぼそぼそと間を埋める。そのことをわかっていたから、なるべくすぐに話をつづけるように気をつけた。久しぶりだったので話題には困らない。O西さんは一年近く映画館で映画を観ていないと言って笑った。単調な人生になにかイベントがほしくて禁煙を始めて一ヶ月経ったらしい。久しぶりのO西さんはなんか面白かった。LINEとかでもなく電話で誘われるというのがあまりないので嬉しい。

3月12日 火曜日

時間の使い方というのはほんとうにわからない。2時間近く残業して、映画を観るつもりが突然の誘いにのって21時から飲み食いして、帰りの電車ではむしろいつもより集中して本を読んで、駅から自転車を押して散歩しながら帰ってしっかりシャワーを浴びて歯磨きもして、いまふとんの上でストレッチだってしている。小説はいまいいところで、朝吹真理子さんの「TIMELESS」の8割くらいのところ。前半は独特のテンポというか間というか、言い含みみたいな文体に、すこし乗り切れなかったのだけど、ここにきてすいすいと文章の上を目線が走って、句読点がぽつぽつと心地よくリズムをとってくる。“いつも思い出せることだけしか思い出せない” こういうときって、ただいつもの電車の乗り換えのホームなどでも、歩いていて流れる景色や音が、その文体のリズムでぽつぽつと切り取られていくようで、長編小説を読んでいるときたまにそうなる。