4月13日
高尾山に登った。会社の上司に誘われて、知らないひと二人と四人で。休日の京王線下りは一車両に山登りの格好が何人かかならずいる。高尾駅のバス停も混んでいて山道では人とすれ違いあいさつを交わしつづける。さいしょ景信山まですこし登りがつづいたものの、そのあとはなだらかなアップダウンの縦走ルート。なめこ汁が美味しい。小仏城山の茶屋にもたくさんの人がいて、飲んだり食べたり賑やかだった。高尾山頂はほとんど観光地だった。天狗、なめこ(福島県産)、蛸杉のキャラクター、猿園、弘法大師、北島三郎と、モチーフが入り乱れる。初対面のひとと交流すると振る舞いや発言がセーブされてしまう。ありきたりな会話を垂れ流しながら登る。ホルモン焼き屋では自分の好きなものを人におすすめするのが難しいという話になった。自分の場合はメジャーなものよりもマイナーなものを好む傾向もあるし、そういうバイアスもある。自分の拙い言葉で相手に良さが伝えられるのかという自信のなさや、相手への信頼のなさもある。適度に文脈を共有していて、適度に文脈を逸脱している言葉が、適度に響くおすすめの言葉でもある。まず文脈がある。文脈があれば説明は省ける。演劇というもの自体がもつマイナー性。メジャーなものはメジャーな言葉でおすすめができる。そこにしかない呼吸、技術、言葉、文体。固有性、自体は変わらなくて、メジャーもマイナーもない。そういうものがすらすらと説明できればよかった。でもまじめに解説するのもかっこわるい? 穂村さんみたく淡々と説明はできる? まだまだ文脈がたりない。文脈によりかかってはいけないが。たとえば柴田聡子さんのよう軽々とに超えてゆく存在はかっこいい。うまく説明できないということは大事だ。逃げないほうがいい。開き直ってはいけない。納得してもいけない。照れても恥ずかしかってもいけない。へらへらしていたい。いつまでもへらへらしていつづけられるかどうか。
4月9日
自分が憶えていないことについては、ほかのことで記憶が忙しくて傍に追いやられてしまったのではなく、毎日すこしずつ、自分で記憶を選択して、選別して、忘れていったのだろうとおもう。ぼくがいま憶えていないことは、ぼくがあえて憶えていないことを選んだ。いまベッドに入ってなんとなく寝られない現在の自分と、かつてたとえば高校生のある夜、中学生のある夜、もっと幼かったときのある夜にベッドに同じ体制で寝転んでいたであろう自分と、断絶しているように感じられるのは。日ごとに、いやもうすぐその瞬間に、つい先ほどの自分の声を省みて、恥ずかしいとおもうことによって、そのときの記憶をそっと時間の流れのなかに溶かしていくような。恥ずかしいから忘れているんだと。恥ずかしいの箱を開けるとどうなるか。掘り起こしたい。一人でならできるかもしれない。文体の力を借りて。あの頃なにも、客観的に見えていなかった。いまだって、もちろん。たとえばなにがかっこいいかとか、なにがマジメなんだとか、なにがかしこいのかとか。すくなくともおれは。だから常に戸惑っていたし、常にうっすら恥ずかしかった。なにかそういうクラスの雰囲気。調子よく喋ってペースをつくっていくもの。突飛なことを恐れずに実行していくもの。ひっそりと様子を伺いながらときどき意思を示すもの。ぼくはそのだれにたいしてもいい顔をしていたかった。どういうきもちで寝る前の天井を眺めていたか。一年のときってそんなにサッカーができなかったのじゃないか。部員の人数が多すぎて、校庭は狭すぎて、隅っこでパス練、とか筋トレ、とか。だけど思い返すに、みんなけっこう必死だった。レギュラー入りして選手権出場などを夢見て、ゆっても強豪校の部活動というものに瞳孔見開いて食いついていこうという。だけれどみんな必死で、実感としても意外と実力差はなかった。ちょっとドリブルが上手いとか走るのが速いとか、中学のとき上手かったとかによって自信があるかないかくらいの差だから、頑張ればおれもチャンスあると、真剣におもっていた。だけれど思い返せば、その自信がいつまでもなかった。じっさいそれが「部活」だった。客観的に見るとかはない。そんな高校生がうじゃうじゃ校庭でボールを蹴っていて、顧問とかにはどういうふうに見えていたのか。サッカーとは勝ちにこだわるスポーツだ、と客観視するまでもなく、あの頃は「部活」だった。レギュラー入りできなかったのが不甲斐ない、恥ずかしいとおもっているから、あの頃の記憶がないのだとしたら、あの頃、あきらめやさぼりというムードを出していたやつらのほうが、実はちゃんと敗北の味を受け止めていたのではないかとおもう。やつらは当時も自分らのことを、サッカーのことを客観視できていたのか。言葉なんていまや、客観視すればするほど偉いみたいな風潮があるけれど、スポーツというのはそういうわけでもないもので、客観視などなくても、肉体と闘志の力で勝利をもぎとる実力者はいるし、けれども長く続けていくことで、誰でもそれなりに客観的に見るようにはなる。そういう肉体と闘志みたいな重要性と、一方でイニエスタのような選手をみると、あれは客観視の賜物だと思わざるを得なくて。かれはいつからあんなふうにサッカーをするようになった?そういうセンスが、サッカーには必要とされてきた歴史がある。われらS高のI監督はたぶん、ボランチとかではなかった。当時の高校=部活というなかで、それを思い切って客観視するだけの知性も勇気もなく、かといってひたすら肉体と闘志を高めていくという我慢強さも大義もなく、わたしは戸惑いながら、高校生活を過ごしていたのではなかったか。サッカーをしていても、自分が上手くなっているのかどうかいつもわからなかった。たとえばイニエスタがJリーグにきて、かれのスルーパスに日本人選手が追いつけずに足をもつれさせてころんだ、というようなあきらかなステージの差。あきらかにこいつはおれよりもサッカーをしっているという感触に手を伸ばすための練習であればと、いまとなっては思えるけれど、それをもってしてもどうだったか。あの全員が必死の「部活」のなかにいては、そんなサッカーのイメージなどかき消されてしまうだろう。それが僕が部活で経験したことだった。しかもその必死の競争相手が友達でもあり、部活動というのはそもそも教育でもあり、青春ということにもなっていて、複雑だった。
4月8日
帰ってきて、プランクをした。カウントもとらず、ちょっと疲れたらやめる。身体を開いて、つま先と肘の先、手首の骨の辺りで体重を支える。というより、床を押しているような感覚。腹部の筋肉が徐々にはりつめる。きつくなってくると同時に、その体勢に飽き始める。膝をついて身体を起こすと、足の先がじーんと温かくなった。さっき風呂に湯を張ったけど、入らなくてもいいかなと思い、寝転んで本のつづきを読み始める。生活というよりも、疲労と回復というサイクルにかつてながく身を置いていたのだと思う。生活リズムというものに意識的になったことなどなくて、ただ毎日やってくる疲労と回復の交互に身を任せていた。あるいは生活というのも、疲労と回復のサイクルを回すための一要素でしかなかった。それはある意味ラクだったし、しあわせでもあった。●高3になってから部活や勉強をさぼり気味になったのも、そんな疲労と回復のサイクルから抜け出してみたかったからなのかもしれない。マックでだべったり、テスト期間にカラオケに行ったり、ゲーセンにのこのこついて行ったり、疲れないあそびというものの違和感に身を浸そうとしていた。●疲れた身体にプロテインを入れて、いつも監督の視線を意識しながらサッカーをして、なにかそういう成長とか競争、勝負みたいなものを嘲笑うかのように、無為に駆け出したりするI君は、かれじしんも気づかないそれはユーモアだった。ぼくはほんとうになにも考えていなかった、のか。
4月3日
今読んでいる本にこんな一節があった。
私は実は力も強く、健康だったし、どちらかといえば技巧派だったので、日常の小さな戦いには勝ってしまう。放っておけば自分がどんどん変わってしまう。生き残るということはつまりそういうことなので、だからそんなとき、夢の中で登校するのが快い。禿げて、肥りかえって、しかしゲートルにランドセルという、滑稽でみじめな姿が、つまり私なのだと、コトンと納得する思いである。
-色川武大「門の前の青春」
このエッセイ集には夢の中の描写が頻繁にでてくる。夢で見る戦後すぐの東京山手の“丸裸になった東京”を回想したかと思うと、突如、ランドセルを背負って隊列をなして登校する戦前の夢が始まる。とうの昔におさらばしたランドセルを背負っている夢をいまだに見ることによって、現実においても中学生の頃の劣等生としての意識をいまだに抱えながら生きている自分を認めて納得するのだと筆者は述懐する。僕は大抵は、忘れることで生き延びている。覚えていることのほうが、重たく、辛く、滞りなく生きる妨げにもなり、本能的にそれを避けているという自覚がある。そういう現実の時間を進めるための“技巧派”であることと、いつまでもランドセルを背負っていることは両立しうるのだと今日の僕は気づく。
4月2日
最近、睡眠時間が長い。昨日は21時すぎに家に帰ってきて、何もする気も起きず、着のままで布団に入り、たぶん10時ごろには眠りに落ちていた。そのぶんはやく目が覚めるのだけど、朝も眠いのでたっぷりと二度寝する。今朝見た夢は、たぶん高校の放課後の部活前で、サッカーのソックスを忘れて友達のMくんに借りようとしたが、あまり貸したくないようだった。ただし僕自身もそんなに部活をやりたいわけではないし、だけどソックスがなくて部活に出なかったら怒られるかもしれないし、どっちでもいいような感じだった。Mくんはは中学の友達だった。