バフチンについて 2

farfalle
·
公開:2024/11/22

『ドストエフスキーの詩学』をちびちびと、本当にちびちびと読んでいるが、第二章にあたる「ドストエフスキーの創作における主人公および主人公に対する作者の位置」を読み始めた。

すっとばすときは、この「ドストエフスキーの創作における主人公および主人公に対する作者の位置」は「○○○」と、自分の中で仮定して、この「○○○」を探す、という挙にでるのだが、「ドストエフスキーの創作における主人公」は「○○○」だ、という部分については、冒頭、

「ドストエフスキーにとって大切なのは、主人公が世界において何者かであるかということではなく、何よりもまず、主人公にとって世界が何であるか、そして自分自身にとって彼が何者なのかということなのである」(p.100)

という文で尽きるように思った。

もちろん、これはあまりにも漠然としているから、具体的な変奏が、このあとにゆらりゆらりと語られるわけだけれど、直観的に、これがわかったんだとしたら、あとはそれを精密にしていくだけでいい。

さっきのテーゼ後半の「自分自身にとって彼が何者なのかということ」は、「主人公の自意識」という部分がパラフレーズ&具体化なんだと思う。

「一方作者が解明するのはすでに主人公の現実ではなく、第二次現実としての主人公の自意識なのである」(p.102)

で、言及され、

「自意識とは主人公の造形における芸術的な主調音であって、彼の形象のその他の特徴と同列に置くことはできない。自意識はそうした特徴をも素材として自らに取り込み、主人公を規定し完結させようとする力をそれらから根こそぎ奪ってしまうのである」(p.104)

作者がキャラクターを規定するのは、通常のことであるが、その規定のためにつけられた形象を主人公自身が意識することで、

「作者の視線はまさに彼の自意識に、そしてその自意識の絶望的な非完結性に、無限の悪循環に向けられているのである」(p.105)

と指摘している。

え、でも、みんなそれは書いてない?と疑問に思った。バフチンは、そんな感覚的な疑問に対する解答を用意した。

「芸術世界のモノローグ的な単一性を解体するためには、主人公像の造形における芸術的主調音としての自意識がありさえすれば十分なわけだが、しかしそれには条件がある。それは自意識としての主人公が単に描写され、作者と混じりあって作者の声の代弁者となっているのではなく、実際に形象化されていなくてはならないということである。つまり主人公の自意識のアクセントが実際に客観化され、作品自体の中に主人公と作者の距離が示されていなければならないのだ。もしかりに主人公とその創り手の間の紐帯が切り離されていないとしたら、我々の目の前にあるのは作品ではなく、個人の履歴書に過ぎない。」(p.106)

このペースで書いていくと、長くなっちゃうね。あと50ページもある。

で、重視するのは、主人公の外貌や服装といった形象ではなく、「言葉」だということだ。

「ドストエフスキーの主人公とは客体的な人物像ではなく、掛け値のない言葉、純粋な声である。我々は彼を見るのではなく、彼を聞くのだ。彼の言葉を除けば、我々が見て知っているすべての事柄は本質的なものではなく、言葉の素材として言葉の中に飲み込まれてしまうか、あるいは、言葉の外部に残って、それを刺激し、挑発するファクターとなるしかない。」(p.111)

人が自分自身を語る言葉の列を、どう名づけたらいいだろう。「一人語り」「独白」「告白」「自己満」「自己アピール」「自意識の表示」「自己顕示」・・・

「ただ告白的自己表現という形式を通じてのみ、ドストエフスキ―によれば、一人の人間に実際にふさわしい、彼についての最終的な言葉を得ることができるのである」(p.115)

バフチンは、このあとプーシキンの『大尉の娘』の主人公グリニョーフとの比較から、ドストエフスキ―の特異性を示そうとする。

「結果として得られるのは、グリニョーフの確固たる人間像である。つまり像であって言葉ではない。グリニョーフの言葉は、その人物像の一要素であり、その機能は彼の性格づけと筋の展開のための機能に尽きているのである」(p.118)

だから、

「自意識が主人公像の構築における芸術的な主調音となるためには、描写される人物に対する作者の位置関係が根本的に新しいものになることが前提とされる」(p.119)

わけである。

それをやろうとしたのが『貧しい人々』で、

「『貧しき人々』において初めてドストエフスキーは、いまだ不完全で曖昧な形ながら、人間の内部にあってけっして完結しない何ものかを示そうとした。」(p.121)

ドストエフスキーの次の言葉をバフチンは引用している。

「完全なるリアリズムにおいては、人間の内なる人間を見出すことが目標となる。……私は心理学者と呼ばれるが、それは誤りだ。私はただ最高度の意味でのリアリストに過ぎない。つまり私は人間の心の深層の全貌を描こうとしているのだ」(p.125)

そして、

「ドストエフスキーは絶えず機械論的な心理学を酷評していた」(p.126)

し、

「また心理学を生理学に還元しようとする生理学的心理学に対しては、とりわけ批判的であった」(p.127)。

僕自身は、機械的な心理学(むしろ、その立場からするとこれが科学的良心なんだと思う)や生理学的心理学(脳科学とか分子生物学とか、そういうふうに言われてしまうそうな雰囲気を持っているけど、僕は結構面白いと思う)については、それはそれで知見を得られると思っている。でも、ドストエフスキーは批判的だったようだ。

で、ドストエフスキーが、この手法やビジョンをもって目指したものは何か。バフチンは言う。

と、長くなったので、メモは終わり。