ポール・オースター『リヴァイアサン』

farfalle
·
公開:2024/10/22

本棚から手に取り、読み始めたら引き込まれて、断片的に読んで感想を書くなんていうまだるっこしいことはしたくなくて、全部読んでから再読しようと思って、一応全部読んだ。

Amazonで書かれている感想は、ポジティブも、ネガティブも、どっちもわかって、何をどう評価していいのか、決めかねた。もちろん、20世紀後半の大作家という評価は、色々な人に共有されているので、その点から褒めるようなことはしないし、読者を選ぶ作品だと思うから、万人に勧めることはできない。

極私的な謎が、主人公の前に現れて、それを解こうと右往左往するプロットが、事件のない推理小説だと言われる所以なのかもしれないが、探偵が主人公であっても、私はオースターをそう感じきることはできない。哲学的と言われることもあるけれど、私には大文字での哲学が、そこにあるようには思い切れない。

あるにはある、けれど、それは付帯的で、本質的な何かの衛星として、周囲をぐるぐる回っている、そんな感じがするのだ。

自分にとって大事なものを語ろうとする時、それがなぜ大事なのかを説明しようとすれば、様々な迂回や逡巡で、語りがまみれることになろう。『リヴァイアサン』の語り手は、ベンとの思い出を大事なものとして、語ろうとしたのだと思う。だから、話に無関係のように思われる人々の話も、織り込んでいったのではないか。大事なのは、ベンとの友情でも、諍いでもなく、ベンとの関わりが語り手の人生そのものだった、という一点に尽きると思う。

ベンは、冒頭で自由の女神像を爆破して回る活動家のテロリストとして爆死する。しかし、語り手の知るベンの姿と隔たりがある。知っていたはずのベンと、爆死したベンの隔たりが、どのように生じてきたのか、を語り手は知ろうとする。わからなければ推測する。状況証拠から、周囲の証言から。このようにして、順を追って、時には迂回して、少しづつ、隔たりの合間を埋めようと、思索する。それは探偵のそれだと言ってもいいし、言わなくてもいい。

オースターはもともと、テクストの隙間を、説明で埋めていくタイプではない。説明し尽くそうとする趣向から、遠いのがオースターだ。ただ、この作品、埋められるものなら埋めようとしている。けれど埋まらない隔たりについても、見てきたかのように埋めようとした。もちろん埋まっていない。雑に埋まっている。特に、ベンが山で道に迷って助けてくれたドライバーと一緒に近道しようとして強盗に遭って、ドライバーが射殺された後に、その射殺犯を殺害する、あたりについて。

かなり猛スピードで読んでいた私にしても、このシーンは、えっえっ、と巻き込まれた。気持ちが。そして、ベンが殺害した犯人が、マリアの旧友の夫のディマジオで、その旧友のリリアンとベンが関わることで、「怪物」へと変貌する。この「怪物性」、これがどうしてこうなったのかについての解釈は読者に投げ出され、最終的な解決に至らない。説明されないことに苛立つ読者もいるし、それは我々(=読者)が考えることと納得する読者もいる。

ベンの話なのか、語り手の話なのか。私たちは、偶然によって「怪物性」を揺り動かしてしまうことがありうる。書き上がって、語り手が、FBIに原稿をあっさり渡してしまうのは、ベンが怪物ではなかったことを納得できたからではないか。少なくとも、語り手には。