バフチンについて

farfalle
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『カラマーゾフの兄弟』を読んで、やっと、バフチンのいう「ポリフォニー」性が具体的に理解出来た気がした。『悪霊』は私には難しく、『白痴』は逆に思い入れが強くなって客観的に読めなかった。たぶん。

翻訳のこともあるから厳密には言えないのだけれども、ドストエフスキ―はやはり複数の語りを自生的に発展させることのできる天才だったのかもしれない。

ちくま学芸文庫の『ドストエフスキーの詩学』が決定版なのだけれども、1929年版の訳である『ドストエフスキーの創作の問題』も平凡社から出ている。その中間に、新谷敬三郎訳の『ドストエフスキー論』があって、いってみれば全部同じ本ではあるのだが、初版のものにはカーニバル論がなかったり、古い版からの翻訳だったり、ということで、これも欲しいが、なぜか高値である。

私の持っているバフチン文献だけど、さすがにミハイル・バフチン全著作まではいらない。実家に『小説の言葉』もあるはずだ。

バフチンは、アウフヘーベンしない「ざわめく世界」のようなものを構想していて、それがドストエフスキーの世界に合致していたので、論じたのかとも思われた。ラブレー同様である。

旧ソ連に所属している以上、イデオロギーは美学へとも浸透し、いくらオルタナティブが構想されようとも自己批判を通じて、イデオロギーへとアウフヘーベンされるよう導かれる。そのような形でフロイトを読んでいたふしもあるけれど、対話的な終わらない世界の構想があり、複数の声や思想がざわめく世界のイメージが、バフチンの中にあるような気がする。

「描写された世界を一貫してモノローグ的に観察し理解しようとする立場、あるいは小説構造をモノローグ的な規範で捉える観点からすると、恐らくドストエフスキーの世界はカオスと映り、彼の小説の構造は、何か互いに性格を異にしたバラバラな題材と、相互に相容れない複数の構成原理を、やみくもに寄せ合わせたものと見えることだろう。」(p.18)

まさに、これは私が最初『カラマーゾフの兄弟』に思っていたことでもある。

「スメルジャコーフの視野が、ドミートリ―やイワンの視野と結びつくのだ。こうした多世界性のおかげで、個々の題材はそれぞれの独自性と特殊性を極限まで展開しながら、しかも全体の統一性を乱さず、それを機械的なものと化してしまうこともないのである。」(p.34)

バフチンは、スターリン時代を生きた思想家である。イデオロギー的な批判が、処分につながる危険を察知していただろう。実際に、くらったこともある。にもかかわらず、ドストエフスキ―にイデオロギー間の分裂、多声性を持ち込む勇気があった。

続く