合理的に語ることと自由に語ること

ただの哲学
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公開:2025/11/17

デカルトはすべての人に理性が平等に分配されていると考えた。それが正しければ、ちゃんと議論すればだれでも合理的な考えを持つはずだ

もちろんそんなことはない

自分の言いたいことと論理的に正しいこと、科学的に正しいこととは必ずしも一致しない。言いたい気持ちが強ければ強いほど、合理的に考えることが自分を抑圧するように感じる。そして実際に合理的な議論が誰かを抑圧するために利用されることはいくらでもある。合理的な思考といっても結論がいつも完全に正しいわけじゃない。それに、合理的に語るにはそれなりのリソース、たとえば制度化された教育や学問、が必要だ。一般論として、社会的強者の方がそういう制度を維持するためのリソースを持っているだろう。

だから、合理的な思考、論理学や数学や科学、が整備されればされるほど、そういうものへの反発が強くなるし、そういうものがより抑圧的に感じられるようになる。現代の反知性主義、陰謀論から自然派やポスト構造主義などの動機づけとしてそういう感情があるように思う。そして、それがだれかを抑圧から解放するように見えることも実際にあるだろう。そしてこれが今の世界が思想的に混迷している一つの原因だろう。

ではどうすればいいか。たとえ擬制であっても合理的な思考主体という概念を立ち上げ続ける必要があるように思う。「合理性を装う」ことと「合理性がそもそもないように振る舞う」ことは別のことだ。「日の名残」でスティーブンスがいうように、紳士はどんなときでも服を脱がないのである。

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