倫理学というものがある。これは何が正しい行いか、と考える学問だ。とはいえ、倫理について直接主題的に扱う学問分野の以外でも、現代の人文学では倫理という言葉が横溢している。これも広い意味の倫理学と名付けてもいいかもしれない。
で、だからなんだろうか。倫理学が主張する規範にしたがう必要ってあるんだろうか
倫理学ではいろいろなことが論じられる。もちろん個別の事例について、何が正しいかを論じることがある。たとえば自殺はいいことなんだろうか、といったことだ。もちろん、公共政策も関係してくる。例えばヘイトスピーチは規制されるべきか、と言ったことを論じる。もっと一般的に、人がしたがうべき一般原則について論じられることもある。たとえば、幸福な人の数を増やすべきだ、とか他者を尊重しなければならないとか。さらに、倫理自体についての反省もある。たとえば、なにが正しいかは文化によって異なるんだろうかとか。
私はこんな議論はどうでもいいと思う。
とはいえ、モラルに反して振る舞っていい、と思っているわけではない。ただ、倫理学がどんな主張をしても、なぜそれにしがたわなければならないのか、と思ってしまう。そして、倫理学はそれに応えることができない。だって、いくら倫理学が答えを提示しても、同じ疑問を持つことが可能だから。
それともそのような態度を持つこと自体がモラルに反するのだろうか。
じゃあ、物理学にたいしてはどうか。「物理学を無視する」といったら、私は物理について合理的に考えることを放棄しているのだろうか。多分そうだ。
多分、ここでのポイントは、物理学が扱っているものは私と他の人が共有しているものだ。月とかクオークとかブラックホールとか。物理学はまさに私が他の人と共有しているものについて語っている、という前提がある。
一方、倫理を私は他の人と共有しているのだろうか。しかし、共有可能な倫理を保つために、すでにある種のモラルについての判断を行わなければいけないように思う。他の人のやっていることは私と無関係だ、と考えないようにするためのモラル。ここでもう、倫理学に従うべきだ、というモラルがすでに前提にされてしまっているわけだ。
物理学は最初から共有物である自然的世界について述べているのだけど、倫理には究極的には個別化された倫理的判断を導こうとするものであって、だとすれば、私の想定するモラルが私についてだけ個別化される可能せいだってあるわけだ。
じゃあ、倫理学や倫理的な議論って私にとってなんなんだろう。結局、それは「ユビラヴェラ」のような無意味な文字や音声に過ぎない。すぎないのだけど、それが私になにか倫理的な示唆を与えてくれることはある、と言ったことだろうと思う。