ミカ・ヴァルタリ『エジプト人 シヌへ』
訳 セルボ貴子
おもしろくて楽しくてつかれる本を読んだので、新鮮な呻き声を残しておきたい。物語の内容についても書きたい部分は書く。
※ ネタバレします
📚 店頭で衝動買い
書店の海外文学の棚で2冊並んだ背表紙を見た瞬間「赤い大地! 黒い大地!」と反射で手を伸ばした。勘違いでもよかった。上下巻ともそれなりの厚みと重さがあったので、まずは上巻だけを買って積読の新入りとして自宅へ招くことにした。その日のわたくしには5000円を超える出費に耐えられないという事情もあった。
中を吟味せず購入したが、本を開いて1行目ですっかり上機嫌になった。いきなり古代エジプトの教訓文学のテンプレートで右の頬を張られたからだ。しかも驚くほど読みやすい。わたくしは迷わず左の頬も差し出した。急ぐつもりはないのにどんどん読み進めてしまい、あっという間に1冊読み終えてしまった。直後スマホに残したメモはこちら。
下巻はおそらく宗教改革による混乱の渦中へ吸い寄せられてゆくので、輪をかけてドタバタのハチャメチャのゲボゲボになる。ヤッター!
本を閉じて一息つくと、カバーには上巻を象徴するような場面や小道具が描かれていることに気づいた。うろんな趣味として、古代エジプトに関する本を読んだり博物館へ出かけたりするのが好きだったので、作中でくり返された言動を思い返すと、その背景がぼんやりと浮かび上がってとても楽しい。詳しい人ならより深く味わえるだろうし、わたくし自身も次に読むときはもっと楽しめるだろうと期待している。
下巻を買いに出かけるまでの間、長年集めてきた古代エジプト関連の本を読み返しながら、上巻をおさらいした。
🍺 ほとんど全員うるさくて最高
会話のレトリックが似ているためか、主人公のシヌへを含め主要な登場人物は全員が大げさで騒々しい。めまぐるしくておもしろくてうるさくてつかれる。カプタぜったい早口。
シヌへはかなりだめで、まあまあよかった。よくもまあそれだけ次から次へと全身全霊の恋ができるものだと呆れてしまうが、その上でしつこいくらい孤独を嘆くのだから大した御仁だ。
この作品は主人公の回顧録だが「ひとりの男による言い訳の書」と形容しても差し支えないと思う。4章で両親の財産を勝手に売り飛ばすシーンは最悪で、このエピソードのために、わたくしは主人公に対する一切の共感を手放すはめになった。両親の遺した言葉はただただすばらしく、人づてにそれを聞いた馬鹿息子が深い後悔と罪の意識に打ちのめされる様子を読んで喜んだ。
物語を通してシヌへはさまざまな土地や環境で生活を送るが、冒険と呼べるほどの自立した意思は感じられず、自由で開放的な旅でもない。唯一冒険譚らしい雰囲気に胸が躍ったのは、クレタ島で暗黒の館に忍び込む8章で、カプタによって洞窟の外に連れ出されるまでの数ページをハラハラドキドキ、高揚しながら読んだ。
またホルエムヘブのおかげで、長らくホルスに対していだいてきた一方的な苦手意識が薄らいだ。彼とホルスを重ねることはしないが、ホルエムヘブは神話で語られるような圧倒的なヒーローでも歴史から抹消された為政者でもなく、勇猛さと虚栄心、肉欲と信仰を併せ持つ重層的かつ多面的なキャラクターだと感じた。
名前をつけられた登場人物では、個人的に死者の家で出会うラモセを気に入っている。彼は荒涼としていた。干からびているが枯れきっておらず、心があり、分別をわきまえて、たしかに生きていると思った。下巻の10章終盤で、わずかに情動と思いやりを見せるところも好ましかった。無関係の2人をあえて並べるが、老いたラモセと幼いトトだけはうるさくなかった。
王家や神官に関しては、有名な黄金のマスクや胸像、顔面のほとんどを剥がされた棺や鼻を削り取られた彫像がつねに頭から離れず、彼らがなにかを企てて行動を起こすたびに先の展開を夢想して勝手気ままに楽しんだ。
🌅 知識の断片に情報が乗る瞬間
この物語を読んでいちばんうれしかったのは、今まで自分の頭の中に散らばっていた知識のかけらが、光と影と色、音や声、におい、熱、質量を得たことだった。つまみ食いのあやふやな知識がにわかに芽吹き、枝葉を伸ばして花開いてゆくのを何度も実感した。
ナイル川には獰猛なワニがいること、大型のカラスやハゲワシが肉を食いちぎることは知っていても、食事を終えて満足したワニの口元に近づいて、歯の隙間にはさまった食べ残しを啄む小鳥、その情景までは想像したことがなかった。
歴史上の出来事としてのアマルナ革命を知っていても、神官や富裕層、商人、芸術家、大工、兵士、貧しい人たちや奴隷の一人ひとりがどんな形で巻き込まれていったかまでは想像していなかった。略奪や死に怯え、怪我や病気に苦しみ、泣いたり怒ったり、隣人に恩義を感じて匿い、敵と見定めた相手を襲い、悩んだり騙されたりしながらその日その瞬間を生きる人間の、名前は残らずとも言葉を交わす人々の姿が丁寧に描かれていた。
シヌへの語りは表情豊かで、とくに14章の終盤、兵たちとともにテーベへ戻る場面では、目に映るものや耳に届く音、肌で感じるものを余すことなく書き連ねることで、変わり果てた母国に対する親しみと慈しみを訴えかけてくる。
さまざまな土地で多くのものに出会い、ひととき生活を共にしてやがて別れ、またどこか遠くへ流されてゆく。みずからを異邦の者と捉えるシヌへが語る自然と暮らしの風景は、とても複雑で美しいものだった。
🪲 最後に書き添えておきたいこと
スカラベはマジですごい。