節はいつでも作っていいが、世の仕組みが作った節目も役にたつ

planpot
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師走は諸々の事情から年末にかけて自分で自分を洗脳するように追い込む働き方をしてしまっていた。この場くらいは、ゆるく、やわらかい文章でほっこりゆるふわなインターネット体験の場にしておきたいが、僕の年末は最後まで熱を帯びていた。仕事の炉に薪を焚べに焚べ燃え上がる。ギラギラ。炎上という意味ではないのだけど、炎はダークサイドな青黒さが出ていた。

早い話、根を詰め過ぎていました。自分でも真似したくない働き方です。これも前厄だった故なんでしょうか。そして年は変わり本厄です。厄年って苦労する年になるとか本当なのでしょうか。今日4日の仕事初めのお参りで、堂々と昭和58年生まれ、本厄はお前だよと書き示されていてショックを受けています。

年始に宣告突きつけられて、これを意識して一年過ごすのとか、どうかと思う。納得いかなくて「厄年 対策」でググった。

二礼二拍手。助けてインターネット。

どうやら一説によると、厄年は人生の中で節を感じられにくい年齢に役つけたことがきっかけらしい。人生2回目の厄年である42(実年齢は41)は、経験も積み上がった壮年期。そろそろ人の役に立てるステージに来ている。とのことで、手持ちを整理して人の役に立てる準備をしましょう。という解釈もあるのだとか。これは採用。

ものは捉えよう。嘘か誠かよしとして、一礼して仕舞いとする。

いつの間にか仕事の炉は親戚の集まりをはじめ、強制イベントで落ち着きつつある。厄年の解釈もでき自分の気持ちも転じたように思う。こうした文章を書ける気持ちも回復した。ギラギラしていた数日前は脇目も華やかな紅白なぞと目つきが悪かっただろうが、こうして節目があることで憑き物も取れるというものなんだろう。強制的に訪れた年末年始行事に救われて復帰中。相変わらず仕事のちょうどいい温度はむずかしい。良いリズムを作りたい。

@planpot
ひかえめに、しずかに。