惜しむように壁や柱を触り、見つめたあと、何日も宿泊できる大きなトランクを重たそうに持ち上げて高橋さんは玄関を出た。
そのシーンを映画のエンドロールを眺めるようにじっくりと味わった。NHKのよるドラ、恋せぬふたり、大変良いドラマだった。
生きづらさを抱える人は、確実にいる。恋せぬふたりは初回の中で主人公がアロマンティック、アセクシャルであることを自認することから物語が進んでいく。
最初の数話は、なんでそういうこと言うかなあ。と一方的な価値観を押し付ける言葉が主人公に浴びせられてキツかったのだけど、一緒に生活を共にすることになった高橋さんの距離を程よく保った接し方に安心し、ストレスと安心の往復で徐々に見入ってしまった。
自分は男性であることを、自認し、受け入れ、恋愛対象も異性で縁あって結婚までしている。そんな自分でも困る言葉を浴びてきた。結婚しただけでは飽き足らず、子供はどうだ、家はどうだと、会うたびに言われてきた。作中のシーンで度々思い出していたし、思い出すくらいにこの問題は根深い。
自分の対応はいい加減にしてくれ的な拒絶表現で大人しくさせてしまったが、稚拙な対応だったと振り返る。機会を見つかった時には、いつかのあの言葉は。と話してみてもいいかもしれない。
縁起でもないが、話したいと思った時にはもういないからと、親孝行は云々と急かす言葉があるだろう。ただ、その投げかけアドバイスもどうなんでしょう。確かにこの歳になり会えなくなった人も増えた。死去、連絡不通、遠方にいる。インターネットがあっても会えない、言葉が届かない。それでも話しかけることはできるから、機会を待てばいい。自然に話せた時がベストタイミングだ。
待ち姿勢の自分の一方、作中で目覚ましい伸びを見せたカズくんさんには拍手を贈りたい。分かろうとして必死に対話を続けた彼。分かろうと考え続けた人たちと主人公の間には確かなつながりが生まれていたと思う。自分にとっては恥ずかしい言葉だけど、絆、仲間、家族が連想された。友情、恋愛、愛情だけじゃ関係性のスペクトラムは描けない。
ドラマで描かれた周囲の態度の変容のように、日本も少しは変わったのかなと思える一歩言わなくなっただけの状態っぽい。自分の主張は正しい。思い通りになる。ということの価値が崩れたら周りも世界も平和になるのだろう。