(これは生成された文章です。後のメイキングでどのように作られたかを説明します。ここでは備忘録としてのまとまった形のテキストを出力する方法のプロンプトを作るのが主題でした)
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対象読者: 人間関係の複雑さや、他者との距離感に悩む人々。社会的なコミュニケーションの裏側にある力学に興味がある方。
狙い: 「誰とでも仲良くなれる」という言葉の多義性を解きほぐし、個人の認識や期待が人間関係に与える影響を深く考察する。読者が自身のコミュニケーションスタイルや他者への期待を見つめ直すきっかけを提供する。
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# 「誰とでも仲良くなれる」という幻想――関係性の確率論とコミュニケーションのコスト
🤝 理想の社交性と潜む棘
「誰とでも仲良くなれる人」。この言葉を聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、太陽のように明るく、どんな輪にも自然に溶け込める社交性の達人だろう。彼らは、初対面の相手ともすぐに打ち解け、あらゆるタイプの人間から好かれる、まるで理想的な存在のように見える。その能力は才能であり、多くの人が羨む特別なスキルだと考えられている。
しかし、この光り輝くイメージの裏側には、しばしば語られることのない影が潜んでいる。ある集団において、「和を重んじる」という暗黙のルールが存在するとき、この「誰とでも仲良くなれる」能力は、時として異なる顔を見せる。それは、集団の調和を維持するために、その「和」に馴染めない者を巧みに見極め、静かに排除する機能として働くことがあるのだ。一見、すべてを包み込むような優しさは、実は集団の境界線を守るための鋭い刃となり得る。
この逆説は、私たちに根源的な問いを投げかける。「誰とでも仲良くなれる」とは、一体どのような能力なのだろうか。それは本当に、すべての人に向けられた無条件の好意なのだろうか。それとも、もっと計算高く、生存戦略に根差したスキルなのだろうか。この言葉の持つ多面性を解き明かすことは、人間関係の本質を理解するための重要な鍵となる。
🎯「全勝無敗」か「高勝率」か
「誰とでも仲良くなれる」という能力を、もう少し解像度を上げて観察してみると、そこには大きく分けて二つの異なる捉え方が存在することに気づく。それは、人間関係を一種のゲームや競技にたとえることで、より鮮明になる。
一つは、「全勝無敗」を目指す在り方だ。これは、文字通り「誰とでも」、つまり出会う人間100人中100人と良好な関係を築ける、あるいは築くべきだという理想主義的な視点である。この考え方では、一人でも関係構築に失敗することは許されず、完璧な社交性が追求される。それはまるで、あらゆる相手に対応可能な万能の鍵を持っているかのようなイメージだ。
もう一つは、「高勝率」を誇る在り方だ。こちらは、すべての人と仲良くなることは現実的に不可能であると理解した上で、非常に高い確率で他者と良好な関係を築ける能力を指す。100人中80人、あるいは90人と仲良くなれれば、それは驚異的な成功と見なされる。この視点には、相手や状況を見極め、時には「仲良くならない」という選択肢も許容する、戦略的な柔軟性が含まれている。彼らは、どの試合で勝ち、どの試合を捨てるかを知っている、熟練のプレイヤーと言えるかもしれない。
この二つの違いは、単なる程度の差ではない。前者が理想を追い求める完璧主義であるのに対し、後者は現実を見据えた現実主義である。そして、社会という複雑なシステムの中で、どちらの在り方がより持続可能であるかを考えると、興味深い洞察が浮かび上がってくる。
🧠 行動から認識へ:世界を見るメガネ
ここで、一度視点を大きく転換してみよう。問題は、実際に「全勝無敗」や「高勝率」で振る舞う人々の側にあるのではなく、彼らを見る**私たちの側**、つまり「誰とでも仲良くなれる」という言葉をどう解釈するかという**認識の側**にあるのではないだろうか。
社会的な適応という観点で長期的に困難を抱えやすいのは、特定の行動を取る人そのものではなく、「誰とでも仲良くなれるとは、全勝無敗であるべきだ」と解釈してしまう、その認識パターンを持つ人々かもしれない。
なぜなら、その認識は現実の人間関係とかけ離れた、あまりにも脆い期待を内包しているからだ。彼らは、社交的な人物に対して「すべての人を無条件に受け入れるべきだ」という極端に高い理想を投影する。そして、その期待が裏切られたとき――例えば、その人物が誰かを拒絶したり、集団のルールを優先したりする場面に遭遇したとき――彼らは強い失望や、時には裏切られたかのような怒りさえ感じるだろう。
この「全か無か」の思考は、人間関係の複雑さや曖昧さを受け入れる余地がない。関係性には相性があり、時間や状況によって変化するという当然の事実を無視してしまう。このような認識のメガネを通して世界を見ている限り、他者との間に健全な距離感を保つことは難しく、失望と孤立のループに陥りやすい。長期的に見て「予後が悪い」と感じられるのは、この硬直した認知のあり方そのものなのである。
⚙️ コミュニケーションの「コスト」とは何か
人間関係の力学をさらに深く理解するために、ここに「コミュニケーション・プロトコル」とその「実施コスト」という概念を導入してみたい。
「プロトコル」とは、私たちが他者と交流する際に用いる、暗黙のルールや手順の集合体だ。挨拶の仕方、会話の始め方、適切な話題の選び方、相手への敬意の示し方など、社会生活を送る上で多くの人が共有している標準的な様式がある。これを「一般プロトコル」と呼ぼう。このプロトコルに従っている限り、コミュニケーションは比較的スムーズに進み、精神的なエネルギー消費、すなわち「コスト」は低く抑えられる。
しかし、すべての関係がこの一般プロトコルだけで成り立つわけではない。人にはそれぞれ個性があり、特有の価値観やコミュニケーションスタイルを持っている。ある人は冗談が通じにくく、またある人は感情をあまり表に出さない。こうした個人特有の様式に対応するためには、一般プロトコルから逸脱した、特別な「最適化」や「配慮」が必要となる。これが、高い「実施コスト」を要求するコミュニケーションだ。相手の癖を理解し、言葉を選び、通常よりも注意深く振る舞う必要がある。
この「コスト」の概念は、交友関係のスタイルを考える上で極めて重要だ。「広く浅い」関係は、主に低コストな一般プロトコルによって維持されるネットワークである。一方、「狭く深く」という関係は、互いに高いコストを払い合い、相手に合わせた特別なプロトコルを構築することで成り立っている。
問題は、このコストを誰に、どこまで支払うかだ。家族や親友といった特別な関係においては、この高いコストを支払うことは「愛情」や「絆」の証として自然に受け入れられる。しかし、それ以外の人々に対して、私たちは同じように高いコストを支払うことを求めるだろうか?あるいは、支払うことができるだろうか?
⚖️ 「重い」関係性の力学
多くの人は、親友や家族以外の関係において、過度に高いコミュニケーションコストを支払うことにも、相手に求めることにも躊躇するだろう。なぜなら、そこにはコストに見合うリターンが保証されていないからだ。このコストの不均衡から生まれる感覚こそ、私たちが俗に「重い」と表現するものの正体ではないだろうか。
特に、人付き合いの経験が少ない、あるいは交友関係が極端に限られている人は、一つの関係に過剰な期待を寄せやすい。彼らにとって、一つひとつの繋がりは非常に貴重なリソースだ。そのため、その関係を失うまいとするあまり、相手に対して過剰なまでに高いコストを支払おうとする。相手の顔色を常に窺い、相手に完璧に合わせようと努力し、同時に、相手にも同等の配慮を無意識に求めてしまう。
この試みは、相手から見れば「重い」と感じられる。なぜなら、相手はまだ、その関係にそれほど高いコストを支払う準備ができていないからだ。この期待値のズレとコストの不均衡が、かえって相手を遠ざけ、関係を破綻させる原因となる。善意から始まった細やかな配慮が、結果として自らを孤立させるという悲劇的な構造がここにはある。
これは、前述の「全勝無敗」の認識を持つ人の困難とも深く結びついている。「すべての人と特別な関係を築けるはずだ」という期待は、出会うすべての人に高いコミュニケーションコストを要求するに等しい。しかし、現実の社会は、低コストな一般プロトコルで動いている部分が圧倒的に多い。このギャップに適応できないとき、人は弾かれ、孤独を感じることになる。
🧭 新たな羅針盤を手に
「誰とでも仲良くなれる人」という一見シンプルな言葉の裏には、確率論的な現実認識、行動と認知のズレ、そして目に見えないコミュニケーションコストの経済学といった、複雑で多層的な力学が渦巻いている。
人間関係は、単なる善意や社交スキルだけで成り立つ単純なものではない。それは、相手と自分との間に存在するプロトコルの差異を認識し、支払うべきコストを見極め、時には「仲良くならない」という選択肢をも受け入れる、極めて現実的な営みである。そして、他者への過剰な期待、特に「全勝無敗」を求めるような硬直した認識が、いかに関係性を脆くするかを、私たちは見てきた。
この記事を通してたどってきた思索の旅が、あなた自身の人間関係を見つめ直すための一つの羅針盤となれば幸いだ。あなたは、他者とのコミュニケーションに、どれほどの「コスト」を支払い、また求めているだろうか。そして、あなたの持つ「誰とでも仲良くなれる」という言葉のイメージは、現実の複雑さを受け入れる柔軟性を備えているだろうか。その問いの先に、より豊かで、持続可能な人間関係を築くためのヒントが隠されているのかもしれない。
メイキング(ここから本題)
これは元々軽くバズっていた投稿を見てそれへの反応をgrokに書いたところから始まっていた。それを元にいくつか試しに記事としての文章を書かせてみたもののあまり納得がなかった。
grokの履歴はこちら(自分目線ではこれを越えられない)
https://x.com/i/grok/share/1WBBPxJHX5AEAV7xjgu4Si2E4
元のURLはこちら
https://x.com/yunomi_123/status/1933694563950211314
「誰とでも仲良くなれる人」はすなわち「和を重んじる人」なので、集団に馴染むのが苦手なタイプは容赦無くブロックしてくるんですよね…
誰とでも仲良くなれる人
👆🏻なぜかこのタイプに1番嫌われる
それが「誰とでも仲良くなれる人」になる秘訣なのだろうけど、不都合な相手を排除する側面も立派に持ち合わせていながら「誰とでも仲良くなれる人」と評されてるのがとてもムカつく
これに対して以下の様な入力からgrokとの対話を始めていた。
この投稿を見て https://x.com/yunomi_123/status/1933694563950211314
任意の人と仲良くなれると捉える人
と認識する人の2種類がいて後者は社会との適応度の観点で予後が悪そうだと思ったし、そういう人たちがいわゆる投稿元での弾かれる側なんだなと思った。どういうイメージの元このような発想に至ったか余白を埋めてください。
(grokに渡した文章から少しいじっている)
備忘録としての価値
今までもそしてこれからもしばらくこちらではスマホから使うgrokとgeminiの活用例を探すというコンセプトで進めている。
そして今回の記事では、結局のところ、「思考の追体験」というような修飾が自分にとっては一番価値がありそれ以上を求めるのは無理という結論になった。それ以外の場合も求めていたのだけれど実態としては素材としての文脈提供と触媒としてのプロンプトの提供の域を出ない。加えてセッションで対話が進むほど提供した文脈を無視して直近のプロンプトにだけ回答するような文章を生成してしまうような傾向があるようだった。コレでは大元の自身のx/twitterでのつぶやきからの思考を元に文章として外化するということは実現できていない(ただし初期プロンプト自体が全体の方向を決めてしまうため初めから上手く行かない対話はすぐに捨てて新たにセッションを作り直すべきと言う話はある)。
というわけでgrokとの対話で背景情報を加えて、geminiで思考の整理をしたあとは他者向けの文章を作るのではなく自分のための備忘録を作るというのが自分の中の利用法としてしっくりくる感じがしてる。いろいろ試行錯誤した結果以下のようなプロンプトを使っている。
📝 役割にはたとえば「思慮深い執筆者」などが入る
あなたは{{役割}}です。これまでの思考の内容を追体験させるような文章がほしいです。わざと短くまとめようとせずに丁寧に長さを気にせずテキストとして出力してください。
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記事のフォーマットについて
- 記事は#1つのタイトル名からはじめてください
- 記事は幾分かの章で分割してください
- 章タイトルには絵文字を1つ加えてください
- 記事はmarkdownフォーマットを念頭に入れて出力してください
- 対象読者と狙いをFront matter で簡潔に冒頭につけてください
- 文章は長くなっても構いません。丁寧に記述してください。
## 重要なこと
- 読者は私およびあなたの存在を知りません。伝える必要もありません。文中で参照しないでください。
- 読者は投稿元のSNSの投稿を知りません。それについて触れずに表現してください。
それではお願いします。
これによって生成した文章が冒頭のテキストだった。繰り返すが「思考内容の追体験」と「圧縮せずに丁寧に記述」が自分の思考をなぞる形での変換になるのでうまく機能しているように思う。
他者に向けた文章に関しては何らかの意図性を持たせる必要がありもう一段階多い編集的なステップが必要になる。これをスマホで実現する方法は見いだせなかった。
たびたび使うことになったので手軽にクリップボードにコピーして使えるようにした。以下のアプリの「grok > 思索の文章化」でコピーできるようになっている。
プロンプトをクリップボードにコピーする君
https://podhmo.github.io/chatgpt/
失敗した施策
上の結論に至る前に幾らかの施策を試してみていた。それは失敗したがせっかくなのでメモもしておく。
最終的な結論はこのようなものになった。まぁなかなか手軽に自分の好みの文章と言うか機能する文章を生成できないねという感じ。
文章でもコードでもポン出しのそれっぽい何かを出力させるのはできるんだけど、それをもう1段上の感じで洗練させるのが意外と難しいよなみたいな気持ちが強い。
それこそちまちまとした進捗の改善ではなく作り直しを繰り返すみたいなただの線画と水彩画や油絵との違い程度なんじゃないかと思う感じの
最初はカジュアルにいい感じの文章を他者向けに提供することを考えていてこのようなつぶやきをしていた。楽観視してた。
(grokのURLを指して)こういうのをベースにnoteとかに書くとそれなりにいいねをもらえそう
はてなとか
- 分析する体
noteとか
- 一般的な人の他者切り捨て感への緩和と自身の振る舞いの肯定
- 狭くて深いと感じる人へのエンパワーメント
とかにするといい音がもらえそうなイメージ。
まぁ実際にやってみるとビミョーだったりした。これは先ほどのプロンプトで出てきた「役割」の指定の仕方のミスでもあったように感じる。スピリチュアルな表現になってしまった。
あとは複数の読者に向けた複数の記事の執筆を1つのセッションでやろうとしてしまった。これは語彙が混濁を起こし生成された文章が読者に完璧に寄り添った記述にならない感じだった(まぁ生成ai的に考えてそれはそう。しかし複数セッションを同時に束ねて頑張るのはスマホでは限界がある)
あとは元々渡したgrokを超えて一般的なコミュニケーションに関する文章を出力してるように感じた(今回のgrokの履歴はコミュニケーションに関するものだった)。このへんは先ほど言及した「役割」が文脈からの着眼点にも利いているのか文章表現の選択のみに利いているのかまだまだ不明瞭な認識。
ちなみに以下のような対話履歴だった。以下は自身の入力のみをまとめたもの。geminiの回答は含まれていない。
## ユーザー入力履歴
ユーザー:
あなたは思慮深いコミュニケーターです。この文章は私とgrok(ai)との対話履歴です。ここでの対話の内容特に予後が悪い人の認識や狭い深いや広い浅いを定性的な形から少し変形して解釈することとコミュニケーション・プロトコルの実施コストのに付いて着目してください。
そして、以下3つの読者を考慮した3つの記事を生成してください。
対象読者と狙いについて
- 理性的で理系的な認識を持つ人にモデル的な枠組みを共有する狙いの記事。あくまで全体を整理し構造を明らかにした分析的な知見の共有が狙い。
- 狭く深いコミュニケーションを相手にも自分にも求めて重いと言われる人に対して寄り添いとそれへのアドバイスとなぜそのようになるかの説明とエンパワーメントが主題。
- 一般的と言っても良い人について自身の行いと弱者切り捨て感の緩和と、なりたいと思っても届かないコミュニケーション強者への羨望を肯定しつつも読者への肯定(ここの読者は一般的なコミュニケーションコストとの差異は把握してていくぶんか切り捨ててきた人がいる。しかし自信を持って強者と名乗る気にはならない)
記事のフォーマットについて
- 記事は#1つのタイトル名からはじめてください
- 記事は幾分かの章で分割してください
- 章タイトルには絵文字を1つ加えてください
- 記事はmarkdownフォーマットを念頭に入れて出力してください
- 対象読者と狙いをFront matter で簡潔に冒頭につけてください
- 文章は長くなっても構いません。丁寧に記述してください。
## 重要なこと
- 読者は私およびgrokおよびあなたの存在を知りません。伝える必要もありません。文中で参照しないでください。
- 読者は投稿元のSNSの投稿を知りません。それについて触れずに表現してください。
それではお願いします。
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ユーザー:
もう少し具体例として私とgrokとの対話で出てきたモデル(冒頭で重要だと表現した部分)について触れてください。
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ユーザー:
もっと記事ごとの分量は増やしても良いかも。丁寧に寄り添いから仕組みの説明を経てそれの適用くらいまで記述して一つの記事は2000文字から5000文字位を目指す感じで。それくらい丁寧に記述して良い。
grokとの対話からもっと意味を抽出して語られてることは一つではないよ。
これは忘れて良い
> もう少し具体例として私とgrokとの対話で出てきたモデル(冒頭で重要だと表現した部分)について触れてください。
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ユーザー:
3つの記事を同時に執筆させようとすると語彙が引きづられてるように感じますね。では以下に対して全力を出してください。
対象読者: 深い人間関係を求めるあまり、他者から「重い」と言われたり、コミュニケーションに疲弊しがちな人々。
狙い: その特性の価値を認め、エンパワーメントすると同時に、他者との健全な距離感を築くための具体的な視点とアドバイスを提供する。
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