書き散らしたメモのような断片を入力として利用したいという足掻き

podhmo
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日記を書き始めたとき最初の時間は何を書けば良いか思いつかず頭に浮かんだものをとりあえず文字にしていくことにする。

その後、普通の日記として完成させる場合は今日あった出来事についての時間遷移を記録することになる。しかしこれでは何とも思考が進んでないような感じがする(ただしすこし後の未来に見返したときにそのときあった出来事を思い出せるようになる)。

何か考え事のテーマが定まった場合はそれについて考える文章を連連と書き殴っていくことになる。このときx/twitterでのスレッドへの連投でのそれよりも幾分か散発的なものになる気がする。

何となく出力を後の入力として使いたいという思いがある。

文章を書くにしても自分に閉じた探索的な文章と人に何かを伝達するための説明的な文章がある。

何かの発見を望む場合は探索的な行為になり、他者を変化させたり他者からの評価を得たい場合には説明的な文章になる。

備忘録はどちらか?基本的には説明的な文章な気がする。対象は未来の自分。ある種の事実や調査結果そして操作の手順を忘れても良いようにメモする行為。かつてはちょっとした発見などもブログの記事にしていたような気がする。最近は全くできなくなった。そもそも具体的な実験や作業をする機会がなかった時期があった。それを経て習慣が失われた。

あとは好奇心ベースで調べたことを書くこともあった。今は体力がない。

本来的な説明的な文章には必ず受け手としての想定読者が存在する。なので説明的な文章にもいろいろな形態が存在する。

例えば、他者に影響を与えるための布教や宣伝のための説明的な文章。ここにポジショントークもあったりする。最高な出来事があったときにその感情の高まりのようなものをそのまま出力するみたいなものもあるかもしれない。基本的には得することを強調する。

あるいは、ある言葉や概念これは主観的な思いつきでも良いそれらを説明するための文章。どのような解釈が存在してそれがどのような意味でどこまでの範囲で正常に動作し類縁の事項と未来への課題過去の文脈への接続があると論文になる。

個人的には説明的な文章に関心を持てていなかった。飽くまでも自分に閉じた自分の発見のための文章をプライベートな場に記録し続けていたような感じだった。

探索的というからには全体の展望を持っていないことがある。ここからが困りどころで話したいこと。例えばgithub issuesやzennのscrapsのようにタイトルと内容を埋める場所を先に決めそれに関連のある内容だけを記述するような形態のものがある。

このはじめから記述するべき文脈が絞られているようなものが使い辛い場合がある。そして何処に書くべきか探すのに苦労して探してる間に忘れてしまうことがある。

一箇所にまとまったほうが楽なのもしれない。

ChangeLogメモ的なものが良いか?というとスマホとの同期が難しい。そもそもスマホではその時時に思い浮かんだことを忘れないうちにメモしておくということくらいしかできない気がする。

timesのような一箇所のストリーム的な場所に雑に思うことを垂れ流しておくというのが悪くないような気がする。

logseqのようなアウトラインエディタはしっくり来なかった。かつて書いた事自体がノイズとなって邪魔をし出力の方向を決定してしまう。

一方でまっさらなところだと何も書くことができない。具体的に言えばメモ帳やこのbsky上で書くよりx/twitterを選んでしまう。x/twitterの特定の呟きを題材とそれへの反応としてスレッドとして連投したりする。これによってスッキリする場合がある。

一方でx/twitterでのスレッドはそこに書いたそれ自体で満足してしまう所がある。そして色々目に映る自分とはかけ離れた大げさに言えばどうでも良いことに思考が縛られる。

自分との繫がりのないことに時間を消費してもその行為は散発的で一度書いたものがもう一度利用されることは少ない。

一応苦肉の策的に利用してる方法としてはx/twitterの検索でかつて自分が似たようなことを呟いてた部分を探し出しスレッドに繋げるようなことをする。

あとはすこし前に書いたスレッドにもう一度考えて言及を追加したりしてみる。

しかしこれは単に思うことを繰り返すだけで消費的な行為に過ぎないような感覚がある。

日記について話を戻す。日記それ自体にはあまり価値がないような気がする。それよりは一度投稿してから内容を読み返し自分でコメントを追加するときに意義があるような気がした。

日記の文章自体は生のログデータのようなものでそれをどのように解釈するのか?という視点で見てみると意味づけのようなものが見えてくる気がする。

また最近は走り書きでやめていた文章に対して章のタイトルと注釈をつけるようにしてみている。それぞれは別の役割がある。タイトル自体は文章間での息継ぎのようなものとしてあるいはインデックスとして機能する。注釈はその章で何を言いたかったのかの概要を書く。文章を読み飛ばすときにそれを見れば良い。

説明のための文章には読み手が居る。これを一般化するか特殊化するか色々な形状の変換の可能性が存在する。これは逆に言えば他者に期待するということで明確な目的と必要性がない場合には虚無に投げる感じで疲弊するし備忘録としてその辺を誤魔化して未来の自分のためと書いていた文章を書く体力は無くなってしまった。

探索的な文章は説明的な文章のための入力で頭の中にはなかったであろう全体の流れやプロットを考えるための走り書きとというか素材のようなものなのかもしれない。そして自分に閉じた内容なので誰にも期待していないということになる。

ただし上手くその走り書きの断片を繋げたり整形したりしないと消費可能にならない。

つまり探索的な文章が感情を吐露して気持ちをスッキリさせるものではないのであればその場で書き散らかして放置という運用はあまり嬉しくない。

上手く接続して何らかのシリーズ的なものとして扱いたい。ここで名前や日課や目標やそのための試作みたいなことが必要になる。あれはこうなのではないか?という仮説のようなものを思い浮かべたらそれが本当にそうであるのか調べる必要がある。

しかし分かっていても書き散らかして満足してしまい過去の出力をもう一度見返すことがない。

マイルストーン的なことが欲しいかといえばそれは単なるタスクリストになってしまう。タスクリストの消費はめんどくさくなって余暇にはやらなくなる。

好奇心をベースに何か面白そうなものを見つけてそれを試すというような感覚で居たときは全然困ることなく過ごせた。これは参入障壁というか精神的コスト及び物理的なコストが低かったからだと思う。

あるいは例えばx/twitterで間違ったことを言ってしまったかもしれないと不安に駆られ調べ物をしたときには切迫感のようなものが原動力として機能する。

野望のようなものがないというか諦めが存在しているような気がする。あとは普通に体力がない。とりあえず簡単なものでも良いので色々なことが再開できれば良いのだけれど。

書き散らかした断片はおそらく何らかのやりたいことの源泉として機能するような気がしている。

そして自分の中でその文章がどういう意味を持っていたのか当時のことを思い浮かべてその文章の概略を思い浮かべて注釈としてつけて挙げると文章自体を入力として何を意図したかったのか考えることになる。これをmarkdownのNOTEの拡張記法で埋めて併記している。

あるいは丁寧に文章だけから分かるものだけを利用し意味が通るように修正していけば自分にしかわからないような独善的な表現がいわゆる一般的な読者が読むことができるまともな品質のものになる。

また分かったことと分かってないことを整理してfuture workをメモするとその先の未来について考えることができるようになる気がする。何かをやるということの前に未来を思い浮かべるということをできたらやる気が出たりするんだろうか?

どちらにせよスレッドに連投をして終わるのではなく何らかの場所にまとめておきそれを参照する形にしたい。

物申したいというような感覚はなく何らかの意味での継続的な取り組みという状態に至りたい。