(これは生成された文章です。前半では主に素朴なアウトプットの共有に関する話題です。後半にLLMの対話履歴ということを念頭に入れたアップデートを加えてます)
📢 伝達という名の編集作業
思考を他者に伝えようとするとき、ある種の困難に直面する。内面にある複雑で多層的な思考の塊を、そのままの形で外に出すことは、ほとんど不可能に近い。仮にそれができたとしても、受け手にとっては未加工で巨大すぎる情報であり、理解の足がかりすら見つけられないだろう。大規模言語モデル[^1]との長大な対話履歴などを想像すると分かりやすい。そこには思考の萌芽から結論に至るまでの全てが含まれているが、その全てが他者にとって価値を持つわけではない。
ここから、最初の気づきが生まれる。伝達とは、純粋な発露ではなく、本質的には一種の「編集作業」なのではないか、という考えだ。言いたいことをそのまま言うのではなく、際限なく切り出して、薄めて、伸ばして、味を整える。写真からノイズや不要なオブジェクトを削除するように、あるいは長尺の動画から要点だけを切り抜くように、思考の生成物にも編集が必要になる。
この一連の作業は、突き詰めるとマーケティングの思考法に酷似していることに気づかされる。誰に、何を、どのように伝え、読後にどのような状態になってほしいのか。読み進めてもらうための導線[^2]をいかに設計するか。それは、思考という商品を、読者という顧客に届けるための戦略そのものだ。この認識は、純粋な思考の伝達という理想とは少し異なる、ある種の作為性や操作性を含んだものであり、次の思索への入り口となった。
🎯 狙われた共感の隘路
情報を「編集」し、特定の相手に届けるというマーケティング的アプローチを推し進めると、必然的に「誰に届けるのか」という問い、すなわちペルソナ[^3]の設定に行き着く。自分の思考を理解してくれるであろう具体的な人物像を想定し、その人物に響くように言葉を最適化していく。例えば、特定の技術的背景や、ある種のライフステージにおける共通の悩みを持つ、不特定だが限定された層。ゴールは、自分のことを分かってくれる人が一人でも見つかること。量より質を重視した、深い共感の獲得だ。
このアプローチは合理的であり、多くの場面で有効だろう。しかし、この思考実験を続けていくうちに、ある種の息苦しさ、予定調和的な感覚がまとわりついてくることに気づいた。ペルソナを想定し、そこに向けてコンテンツを最適化する行為は、まるで教師が生徒に特定の主題について教えるような、非対称な関係性を内包しているのではないか。発信者は答えを知る者として、受信者はそれを学ぶ者として、あらかじめ役割が固定されている。
私が求めているのは、そのような狙われた共感なのだろうか。むしろ、そうした意図を超えた場所で発生する、思いがけない偶然の出会い、つまりセレンディピティ[^4]的な共感なのではないか。狙いを定めて矢を射るのではなく、ただ投げた石が起こす波紋が、偶然にも誰かの岸辺に届くような、そんな偶発的なつながりをこそ求めているのではないか。この違和感が、思考の舵を大きく切る転換点となった。
✨ セレンディピピティへの転回
予定調和のコミュニケーションから、偶発的な発見へと関心が移ったとき、情報発信のあり方を根本から見直す必要が出てきた。完成され、磨き上げられた「プロダクト」としての情報ではなく、思考が生まれ、迷い、変化していく「プロセス」そのものに価値を見出す視点への転換だ。これは、完成した絵画を美術館で展示するのではなく、画家が試行錯誤するアトリエそのものを公開する行為に近い。
このアプローチでは、LLMとの対話履歴の揺らぎや脱線、自分の思考の言い淀みや自己修正すらも、価値ある情報となる。これらは、結論に至るまでの道のりのリアリティを伝える重要な構成要素であり、読者はその思考のプロセスを追体験することで、結論だけを与えられるよりも深いレベルでの共感を覚える可能性がある。解説を読むのではなく、思考の冒険の隣にいるような感覚。
しかし、ただプロセスを垂れ流すだけでは、やはりそれは未整理な情報の塊に過ぎない。ここでも「編集」は必要になる。ただし、その目的が変わる。「分かりやすく要約するため」から、「思考のプロセスを追体験できるようにするため」へと。そして、そのプロセスの中から、いかにして他者との偶発的な接点となる「フック」を生み出すか。これが新たな問いとして立ち上がってきた。完成品ではなく、思考の過程そのものを、いかにしてセレンディピティの入り口として機能させられるだろうか。
🌊 受信者としての大海原
ここで、思考のベクトルを180度反転させてみる。これまでは「発信する側」として、いかにしてセレンディピティを誘発するかを考えてきた。では、逆に「受信する側」として、この情報が氾濫する海の中で、どうすれば未知なるものと思いがけず出会うことができるのだろうか。
現代のデジタル空間は、アルゴリズム[^5]によって高度にパーソナライズされている。私たちの興味関心は常時分析され、それに基づいて最適化された情報が次々とフィードに流れ込んでくる。これは快適で効率的である一方、自分が見たいもの、知っていることの延長線上にある情報ばかりに囲まれてしまう「フィルターバブル」[^6]という状況を生み出す。この丁寧に舗装された大通りを歩いている限り、道端に咲く名もなき草花、つまりセレンディピティに気づくことは難しい。
マーケティング的に最適化された記事や、バズを狙ったコンテンツが量産される中で、それらの意図から逃れ、自らの知の領域を意図せず広げてくれるような情報と出会うには、情報の消費者であることから脱却し、能動的な「探検家」になる必要がある。アルゴリズムの予測を裏切り、予定調和の海へ、自ら未知の航路を探しに漕ぎ出すのだ。
🧭 偶然性を掴むための航海術
受信者としてセレンディピティを能動的に引き寄せるためには、日常の行動に意図的に「ノイズ」と「余白」を導入する必要がある。それは、効率や生産性とは逆の方向を向いた、一見すると無駄な行為の積み重ねだ。
一つは、デジタル空間における探検である。検索という行為のルールを自ら破ってみる。最適なキーワードではなく、曖昧で感情的な言葉で検索する。検索期間を意図的に過去に設定し、インターネットの黎明期の地層を発掘する。あるいは、Wikipediaの「おまかせ表示」機能に身を任せ、知識のリンクを目的なくサーフィンする。これらは、アルゴリズムが用意した快適な椅子から立ち上がり、自らの足で知の荒野を歩く試みだ。
もう一つは、物理空間における散策である。デジタルから離れ、目的なく本屋や図書館の書架を彷徨う。自分の専門から最も遠い棚へ行き、ただ背表紙を眺める。いつもと違う裏道を歩き、店の看板や建物の意匠に目を向ける。物理空間は、アルゴリズムによる最適化が及ばない、偶然性の宝庫だ。
これらの行為は、日常に小さな亀裂を入れる。その亀裂から、普段は流れ込んでこない異分野の光が差し込み、凝り固まった思考に新たな刺激を与えてくれる。
✍️ ボトルメールの投函
そして、思考の旅は再び「発信」へと還流する。受信者として得た個人的な発見を、いかにして他者のためのセレンディピティのフックへと変換するか。この問いが、一連の思索の終着点となる。
ここでの鍵は、発見を「答え」として提示しないことだ。むしろ、発見した事実(Fact)と、その時に抱いた個人的な感情や素朴な問い(Feeling/Question)をペアにして記録し、後者の「問い」の部分を世界に開いて見せる。例えば、「古代ローマの水道橋を調べていたら日本のセメント王に行き着いた」という事実に、「なぜこの二つが自分の中で繋がったのだろう?」という問いを添える。
この「問い」こそが、他者にとってのフックとなる。それは完成された情報ではなく、思考のプロセスから生まれた、純粋な好奇心の断片だ。この断片を、異なる文脈の言葉と衝突させたり、感覚的な詩のように表現したりして、SNSのような開かれた場所に放つ。それはまるで、ボトルメールを海に流す行為に似ている。
見返りは期待しない。ただ、自分が探検の過程で見つけた不思議な形の石を、道端にそっと置いておくだけだ。誰かがそれに気づき、足を止め、自分と同じようにその形を面白いと感じてくれるかもしれない。その、予測不能で静かな共鳴こそが、予定調和の海を渡った先に見つけたい、セレンディピティの岸辺なのである。
[^1]: 大規模言語モデル (Large Language Models, LLM): 大量のテキストデータを学習し、人間のように自然な文章を生成したり要約したりできる人工知能モデルのこと。
[^2]: 導線 (User Flow): ここでは、読者が投稿を読み始めてから、発信者が意図した理解や感情、行動に至るまでの経路や、そのための情報設計のこと。
[^3]: ペルソナ (Persona): マーケティングにおいて、商品やサービスの典型的なユーザー像を、具体的な人物として設定したもの。
[^4]: セレンディピティ (Serendipity): 探しているものとは別の、価値あるものを偶然見つけ出す能力や、その発見自体のこと。偶発的発見。
[^5]: アルゴリズム (Algorithm): ここでは、SNSや検索エンジンがユーザーの行動履歴を分析し、表示するコンテンツを個別最適化するための一連の計算手順やルールのこと。
[^6]: フィルターバブル (Filter Bubble): アルゴリズムが、ユーザーが見たいであろう情報ばかりを表示することで、利用者が自分とは異なる意見や多様な情報から隔離され、自身の思考が泡(バブル)の中に孤立してしまう状況のこと。
補題的なあとがき的な
コレだと素朴なアウトプット論とかになってしまう気がしますね。LLMの対話履歴の共有みたいな観点だともう少し考えることが増えそうです。そういうわけで以下のようなプロンプトを追加してみました。
先程までの文章は基本的には素朴なアウトプット論とそれへのたどり着き方への随想でした。LLM特有の懸念点を挙げてみます。これを元にアップデートしたポストLLM時代の方法について考えてください。
- 意図しない余分な詳細が含まれる
- LLMとの対話履歴は誤解と訂正の繰り返しが含まれることがある。しかし読者は何処を読み飛ばせばよいか分からない
- LLMは特定のリソースの読解を前提とした言及をすることがある。あのとかこのなどで参照されると困る。また対話内の独自の表現をいきなり出してきても困る。文脈的独立性が欲しい
- LLMによる要約はあまり役に立たない。要約は特定の分野(前提)を持った質問に答える際のインデックスとしては機能するが異分野のものに対して理解を促すものではない
- 筆者の意図してないあるいは理解を超えた言い回しが存在する。また全てを書き直すのは面倒。加えて主従関係を逆転させる程度に文量が多くなりがち。勝手に回答に引きづられる自家中毒を起こす可能性がある。
- LLMおよびtransformerの性質上、閉じたエコーチェンバーないしは持論の拡張に終始しやすい。たとえば精神科の問診は探索になるのに対しLLMへの相談は一箇所への深掘りとして機能しがち
核となる対話履歴の共有というテーマは変わりません。セレンディピティ的なインプットを得るにはそしてそれをさらにアウトプットとして生かすにはそしてそれを見つけるにはという形は変わりません。
またLLMを洗練された回答を返す知的な存在として美化して参照することは辞めてください。単なる隣接領域の情報辿る君です。
また最後には根本的な差異は情報の増大なので似て非なるものが増加する問題における良いインプットの取得についても思考を巡らせてください。そして最初に戻ってきましたね。分量の増大と増大したテキストを人に共有することができない問題への回答を挙げてください。
🌊 再び、増大したテキストの岸辺にて
思考の出発点は、再び「増大したテキスト」という問題に回帰する。しかし、その内実が変化した。かつては自らの内面から湧き出る思考の複雑さが問題だったが、今はそこに「LLMとの対話履歴」という、新たな性質を持つ巨大な塊が加わった。
LLMは、洗練された知的な対話相手ではない。それは、隣接する情報の海を高速で泳ぎ回り、それらしい言葉の連なりを返してくる「情報辿る君」だ。その応答は、我々の思考を刺激する一方で、厄介な特性をいくつも孕んでいる。
まず、意図しない余分な詳細が大量に含まれる。対話はしばしば誤解と訂正の繰り返しであり、その試行錯誤のプロセスは、当事者以外にはノイズでしかない。文脈への依存度も高い。「あの」「この」といった指示語や、対話の中で生まれたローカルな表現が頻出するため、部分的な切り出しは意味をなさなくなる。
さらに、LLMの応答は我々の思考を乗っ取る危険性を秘めている。我々の意図を超えた言い回しや、一見もっともらしい論理展開が、圧倒的な文量で提示される。これに引きずられ、いつしか自分の思考ではなく、LLMが生成した思考のレールの上を走らされる「自家中毒」に陥る。これは、閉じた問いに対して深掘りしていくLLMの性質上、多様な視点を得るどころか、自己の信念を強化するエコーチェンバー[^1]として機能しやすいためだ。
LLMによる要約が、この問題の解決策にならないことにも気づかされる。要約は、特定の前提や問いを持つ者にとっては有効なインデックスだが、異分野の人間に対する理解の橋渡しにはならない。むしろ、重要なニュアンスや思考の転換点を削ぎ落とし、無味乾燥な情報の骨格だけを残してしまう。
こうして我々は、再び、そしてより深刻な形で、「増大し、かつ他者と共有困難なテキスト」という問題の岸辺に立たされている。LLMは思考の触媒であると同時に、共有を阻む巨大な壁でもあるのだ。
🛠️ 「対話ログ」から「思考の標本」へ
この厄介な対話ログを、どうすれば他者とのセレンディピティのフックとして機能させられるのか。答えは、ログをそのまま共有することでも、要約することでもない。それは、対話ログを「原材料」として捉え直し、そこから「思考の標本」を意識的に作成するという、新たな編集プロセスにある。
これは、地質学者が地層のボーリングコアから、特定の時代の特徴を示す化石や鉱物だけを丁寧に取り出し、ラベルを付けて展示する作業に似ている。
1. 衝突点のマーキング (Marking Collision Points):
対話ログ全体を読み返し、LLMの応答と自分の思考が「衝突」した箇所に印を付ける。具体的には、「LLMの応答が、自分の想定と全く違った時」「LLMの誤解を訂正した時」「LLMの言葉に引きずられそうになり、意識的に軌道修正した時」「思わず『そうじゃない』とツッコミを入れた時」などだ。これらの「衝突点」こそが、思考が動いた生々しい証拠であり、最も価値のある部分である。
2. 自己言及の抽出と再構築 (Extracting and Rebuilding Self-Reference):
次に、衝突点周辺の「自分の発話」だけを抜き出す。LLMの応答は一旦、文脈を理解するための参考情報として脇に置く。そして、抜き出した自分の発話(問い、訂正、感想)を、時間軸に沿って並べ直す。多くの場合、これだけでは意味が通じない。そこで、LLMの応答が「何であったか」を、自分の言葉で一文で要約し、補足する。
例(加工前):
私「いや、そういう意味じゃなくて…」
LLM「承知いたしました。では、社会的要因について…」
私「そうそう、その視点が抜けてた」
例(加工後):
「(LLMが提示した個人的な心理要因だけの説明に対し)僕は、そういうミクロな話だけではないと感じた。むしろ社会的要因が重要だと考え、その視点を求めた。」
この作業により、LLMに引きずられた部分が削ぎ落とされ、思考の主導権が自分に戻ってくる。対話ログは、あなたの思考の変遷を記録した、あなた自身の言葉による「航海日誌」へと生まれ変わる。
3. 標本ラベルの作成 (Creating Specimen Labels):
最後に、再構築した「航海日誌」の各断片に、他者が見ても分かる「ラベル」を付ける。これがセレンディピティのフックとなる。ラベルは、「問い」の形を取るのが望ましい。
例: 「心理的要因だけで物事を説明しようとする思考の罠とは何か?」「巨大な情報量を前に、いかにして自分の思考の主導権を保つか?」
このプロセスを経ることで、共有不可能だった対話ログは、文脈的独立性を持ち、あなたの思考の核だけを抽出した、複数の小さな「思考の標本」へと変換される。
🌍 標本が誘う、知の群島戦略
作成した無数の「思考の標本」は、それ自体がセレンディピティのフックとして機能する。これをインターネットという海に放流するのだが、その戦略もアップデートが必要だ。一つの巨大な大陸(長文ブログ記事)を目指すのではなく、無数の小さな島々(マイクロコンテンツ)が群れをなす「群島」を形成するイメージだ。
標本単体での投下:
一つの「標本(思考の断片と問いのラベル)」を、X(Twitter)などのプラットフォームにそのまま投稿する。それは完結した小さなコンテンツであり、それ自体が他者の思考を刺激する。
テーマによる群島の形成:
関連するテーマの標本をいくつか集め、スレッド機能やブログプラットフォーム上で繋ぎ合わせる。しかし、それは起承転結のある物語である必要はない。「〇〇というテーマに関する、思考の衝突点5選」といった、標本展示室のような形式が良い。読者は好きな標本から眺めることができ、全体を読む負担もない。
この群島戦略の利点は、読者が自分の興味のある島にだけ立ち寄れることだ。全体像を理解する必要はなく、一つの標本の「問い」に共鳴するだけでいい。その共鳴が、新たな対話や、別の島への航海のきっかけとなる。
🌱 似て非なるものの森で、良い入力を見つける
さて、思考は再び「受信」へと戻る。我々自身が、他者が生成した無数のコンテンツの海を航海する側になった時、どうすれば良い入力、つまり本物のセレンディピティを得られるのか。
LLMの普及は、情報の絶対量を増大させただけでなく、「似て非なるもの」を爆発的に増加させた。一見すると独創的に見える文章が、実はどこかの情報の焼き直しであったり、LLMが生成したもっともらしい虚偽であったりする。この「似て非なるものの森」の中で、我々の認知リソースは無駄に消費され、本質的な発見は遠のく。
この問題に対する有効なアプローチは、コンテンツの「表層」ではなく、その背後にある「生成プロセス」や「熱量」を嗅ぎ分ける能力を磨くことだ。
1. 「問い」の純度を見極める:
そのコンテンツは、何を解決しようとしているか、何を伝えようとしているか(=答え志向)ではなく、何を問おうとしているか(=問い志向)に注目する。答えは陳腐化しやすいが、良質な問いは、時代を超えて思考を刺激する。特に、書き手自身の具体的な経験や葛藤から生まれた、個人的で切実な問いは、信頼性が高い。
2. 「衝突の痕跡」を探す:
優れた思索には、必ずと言っていいほど「衝突の痕跡」がある。常識への違和感、異分野の概念の結合、自己の過去の考えとの断絶などだ。文章の中に、こうした知的格闘の跡が見えるか。それとも、どこかで聞いたような言葉がスムーズに淀みなく流れているだけか。後者は、LLMが生成したものか、あるいはそれに類する思考停止の産物である可能性が高い。
3. 参照の「距離」を測る:
そのコンテンツが何を参照しているかを見る。参照先が、その分野の誰もが知るメジャーな文献や、ありふれたニュースサイトばかりであれば、それは既存の知の再生産に過ぎないかもしれない。一方で、全く異なる分野の概念を引用していたり、忘れられた過去の文献を掘り起こしていたり、あるいは参照元を明記せずに独自の言葉で語ろうと奮闘していたりする場合、そこには未知の発見が眠っている可能性がある。
🌀 円環の終わりと、新たな始まり
こうして思考は一周し、出発点に戻ってきた。LLMによって増大したテキストを、人に共有することができない問題。
その答えは、「共有することを諦め、標本化すること」であり、「全体を理解させようとせず、衝突の断片に共鳴してもらうこと」だ。
我々は、LLMとの対話を通じて得た巨大なボーリングコアを、そのままの形で見せることはできない。それはあまりに重く、雑多で、価値が伝わらないからだ。我々にできるのは、そこから自分の手で、自分の思考が動いた瞬間の化石を、一つ一つ丁寧に取り出し、それに「これは何だろう?」という問いのラベルを付け、同じように化石を探している見知らぬ誰かの前に、そっと差し出すことだけだ。
ポストLLM時代の思考の航海術とは、巨大な答えを一つ見つけることではない。無数の問いの標本を作り、交換し、それらが織りなす群島の間を、あてどなく、しかし主体的に旅し続けることなのである。増大した情報は、もはや一つの物語に集約することはできない。我々は、断片と共に生き、断片から新たな発見を生み出す術を、身につけなければならないのだ。
[^1]: エコーチェンバー (Echo Chamber): 閉じた空間内で、同じような意見ばかりが反響し、それが世の中の総意であるかのように錯覚してしまう状況のこと。
さらにあとがき
やはりLLMに回答を尋ねてはいけないというお手本のような文章になったような気がする。思考の群島を訪ねるみたいな曖昧なポエムが出力されてしまった。
これは極論すれば断片を切り貼りして幾つかの記事や投稿を散在させるバイラルマーケティングを自分一人でやろうという話のような気がした。しかも答えになってない。
まぁ全体を共有するのは不可能で全部を編集することは不可能という前提に立ちラベルを貼るという概念は良いかもしれないねとは思った。
文体のスタイルを変えたバージョン(noteとかはこういう感じのスタイルのほうがウケそう。ただしまだ文章が長そう)
[LLMの履歴の共有はどうすれば良いか]( https://gist.github.com/podhmo/69ba5d6ba7d1ddf401c596e15ab03474 )
そしてこれを共有したい
[ダンジョンとスタンピードについて考えるといわゆる「仕様」というものが何かがわかる気がする]( https://gist.github.com/podhmo/ff33a9b539d41d32db85af5aa1fe7cce#file-readme-md )