(これはaiに生成させた文書です。後にメイキングも載せてます)
はじまりはこういう投稿
ai絵をaiに生成させてる人達、古の価値観に立つと絵師pとかで良いのでは?という気もした。
(ディレクターとプロデューサーの違いが分かってない)
ここから雑にai対話して記事を作らせた
生成ai絵師?絵師?絵師P? 🐦
自分で描いていなくても、プロデューサーのような役割なのだから、絵師Pと呼べばしっくりくるのではないか。
ある日、私はそんな言葉を書き留めた。しかし、ペンを置いた直後、すぐに自分自身への冷ややかなツッコミが頭をよぎった。細かく指示を出しているのだから、それはプロデューサーではなく、ディレクターの仕事ではないか、と。
前提として、私は世間で呼ばれるところの「AI絵師」ではない。ただ、その言葉がまとっている奇妙な歪みと、ネットの海で巻き起こる激しい反発の嵐が、ずっと気にかかっていたのだ。自分で描かない人間が、言葉を使って絵を生み出すとき、私たちはその存在をどう定義すれば良いのだろうか。このモヤモヤとした違和感を出発点に、思索を深めていくことにした。
ちょっと気取って俯瞰してみる 🎨
日本における「AI絵師」という言葉への反発は根深い。絵師という言葉には、何年もかけてデッサンを学び、自らの手を動かして技を磨き上げてきた職人への敬意が内包されている。その称号を、言葉を入力するだけで数秒で出力する者が自称することへの抵抗感は、想像に難くない。
この摩擦は、海を越えた英語圏でも全く同じ形で現れている。そこでは「AIアーティスト」という言葉が激しい議論の的になり、「冷凍食品を電子レンジで温めただけの人間をシェフとは呼ばない」という皮肉をもって批判されている。
結局のところ、やっている行為は指示や選別という「発注者」のそれでありながら、名乗りだけを「作業者・制作者」である絵師に偽装していること。この役割と呼称のねじれこそが、人々が本能的に感じる不快感の正体なのだろう。
ディレクターか、プロデューサーか 🎬
では、自ら描かずに指示を出す者は、何と名乗るべきなのか。
確かに、構図や色彩、細部まで言葉でコントロールしようとする行為は、ディレクターと呼ぶ方が正確かもしれない。しかし、心のどこかで「プロデューサー」と呼びたい、あるいは呼ばれたいという微かな欲求が頭をもたげるのも事実だ。
かつてネットの片隅で隆盛を極めたボカロP[^1]という文化があった。私自身、その響きに対して狂おしいほどの憧れや親しみを持っていたわけではない。ただ、そういう文化があったな、と思い返す程度だ。しかし、あのシステムが内包していた関係性には独特の温かみがあった。
ボカロPにおける「P」は、決して予算管理や企画立案といったビジネスライクなものではなかった。予算管理のような話はそもそも含んでおらず、初音ミクという歌い手に寄り添い、彼女が活躍できる場所を作り、愛情を注いで「うちのこ」として育て上げるような、育成者としてのニュアンスが近かった。
しかし、現在の画像生成技術においては、その対象となる特定のキャラクターが存在しない。プロデュースすべき相手は、生成ツールそのものになってしまう。ツールをプロデュースするという言葉は論理的に破綻しており、どれだけ「P」を名乗りたくとも、プロデュースする対象は空っぽなのだ。
かといって、「絵師D」という言葉には、現場監督の生々しさと、職人の後ろから細かく口を出す嫌な上司のような気まずさが漂う。意味は合っているはずなのに、字面があまりにも奇妙で、座りが悪い。
絵D? あるいはDJという在り方 🎧
この奇妙な違和感を解消するために、私は「絵師」の「師」を削ぎ落とし、「絵D(え・ディー)」という言葉を考えてみた。
ボカロPが「対象:ボカロ」に「役割:P」を組み合わせたものであったように、「対象:絵」に「役割:D」を組み合わせる。これだけで、自ら手を動かす職人という意味合いが消え、絵というジャンルをディレクションする人、という意味にスッキリと収まる。
そしてもう一つの役割が頭に浮かんだ。それは「DJ」だ。
DJは、自ら楽器を演奏して音を生み出すわけではない。すでに誰かが作り上げたレコードを素材として選び、フィルターをかけ、ピッチを調整し、曲同士を繋ぎ合わせて全く新しい空間と流れを構築する。
ツールを用いて、既存の学習データから生成された数々の絵を選別し、トリミングし、ブレンドして提示する行為は、極めてDJ的であると言えないだろうか。彼らは絵の「作曲家」や「演奏家」ではないが、既存の素材をサンプリング[^2]して独自の文脈を紡ぐDJとしての側面を持っているのかもしれない。
それでも、言葉によってビジュアルを厳密にコントロールしようとする意志に焦点を当てるならば、やはり「絵D」という言葉が最もその本質を射抜いているように思える。
境界を超える発注者たち 📝
面白いことに、この「絵D」という役割は、新しい技術の登場によって突然変異的に生まれたものではない。歴史を振り返れば、私たちはとっくの昔から「絵D」を必要とし、それと共存してきた。
その代表例がライトノベルの作家だ。彼らは原稿を書くだけでなく、イラストレーターに対して「髪型はツインテールで、少し照れた表情、見下ろすような構図で」といった極めて具体的な指示書を書く。彼らは自ら絵を描かないが、作品の世界観を形にする「絵D」そのものである。
また、オンラインでのイラスト発注サービスであるSkeb[^3]の利用者も同様だ。リテイクなしの一発勝負で、テキストの指示書だけを送り、完成品を待つ。その緊張感と行為の構造は、プロンプトを入力して生成ボタンを押す姿と見事に重なり合う。
一方で、漫画の原作担当や音楽の作曲・編曲家は少し異なる。漫画のネーム原作は自ら構図という設計図を描いており、脚本原作はセリフというコア素材そのものを提供している。これらは単なるディレクションを超えた、別ドメインの一次制作だ。
「絵D」の特異さは、自分自身で直接的なコア素材を作るわけでもなく、丸投げするわけでもなく、ただ言葉のラリーによって他者(あるいはシステム)のビジュアル出力を自らの脳内イメージに近づけていく、その純粋なディレクション行為そのものに立脚している点にある。
対価とクレジット表記 🏷️
では、この「絵D」としての行為を、どのように世の中に開示し、クレジットに刻むべきなのだろうか。
人間相手の仕事であれば、そこに美しい解決策が存在する。相手のイラストレーターには、これまでの人生で培ってきた独自のタッチやファン層という背景がある。絵Dはその価値に敬意を払い、ブランドを巻き込んでコンテンツを作る。だからこそ、クレジットには原作とイラスト、あるいはキャラクターデザインと声優(CV)のように、役割が分かれた対等な関係として並び立つ。
原作:〇〇 / イラスト:〇〇
キャラクター原案:〇〇 / CV:〇〇
しかし、意思も背景も持たない計算機を相手にする場合、背景の共有は存在しない。それなのに、あたかも自分が全ての筆を握ったかのように「Illustration by 私」と表記することは、やはり欺瞞であり、表現としての誠実さを欠いている。
そこで行き着いたのが、次のようなクレジットのあり方だ。
Illustration by 生成ツール feat. 絵D
この表記は、悪くない気がする。描画の主体であるツールの名をファーストクレジットに据えることで「自分で描いた」という嘘を排除し、同時に「feat.」というゲストを歓迎する言葉を添えることで、そこに介在した人間のディレクションという意志を証明する。
「AI絵師」を巡るネットの不毛な感情論から一歩退き、役割と記号のシステムを丁寧に紐解いたとき、このシンプルな1行が導き出された。それは、自らの領土に誇りを持ちつつ、他者の領域を侵さないという、表現に関わる者としての最も誠実な境界線の引き方なのかもしれない。
[^1]: 音声合成ソフト「VOCALOID」などを用いて楽曲を制作し、動画投稿サイトに投稿するクリエイターの俗称。
[^2]: 既存の音源の一部を切り出し、新たな楽曲のフレーズとして再利用する音楽表現の手法。
[^3]: クライアントがクリエイターに有償で作品制作を依頼できる日本のオンラインプラットフォーム。打ち合わせやリテイクを行わない独自のシステムが特徴。
メイキング
今回も雑に対話をまとめて文書を作らせた。しかもはじめはgoogleのaiモードのところで雑に話てた。
特筆する点はgemini 3.5 flashに作らせたところかもしれない。わりと使い道がないとかいわれがちなモデルだけど、個人的にはこういう文章加工系のタスクにおいては「速い高いそれなりに良い」くらいにはなってる気がする。まぁ ai studioからだと無料だし。あとこれは不人気な意見かもだけどgemini 3.5 flashのデフォルトの出力レイアウトは嫌いではない(箇条書きや図示を3.1 proよりもするようになった気がする)。あとは検索は絶対させない。検索を許すと賢さが減る。
3.5 flashにすることで補足情報を対話履歴に対してダラダラとつけ足すことになった。そのたびに再生成させるのだけどthinking highでもそれなりに速い。いつもはつまり3.1 proを使ってたときは数回程度の試行だったが今回は十数回くらい再生成させた気がする。
最終的にはこんな感じにプロンプトの末尾に補足情報をつけたしていくことになった。
## 補足情報
- 英語圏でどう呼ばれてるかも触れてほしい
- 日本でのai絵師という表記に対する反発…その上で英語圏でもみたいな感じ
- クレジット表記で絵師の場合やcvの場合なんかも併記してみてほしい
- 主体的にとプロンプトで言ってるが、私はディレクターになることを選んだではなく、ディレクターと呼ぶことが正確かも(ただしプロデューサーと呼びたい欲求もある)
- 冒頭のSNSの投稿は自分で良い
- ボカロなどの固有名詞は使っても良い
- ボカロのpなんかは予算管理的な話というよりは活躍の場所を作ってあげる人とか寄り添う人みたいなニュアンスが近い。うちのこ。これは予算管理にとどまらないではなく予算管理などは含んでいない。
- 「◯◯P」という響きへの、強い憧れと親しみはない。そういう文化があったなーと思う程度。
- 前提として「私」は「ai絵師」ではない
- トーンは思索的な感じでよい気がする。
- DJはどうなんだろう?
対話履歴にないDJをあとで加えてしまった結果ai君の筆が走りすぎてる部分は出てきた。あとラノベの作者はそんなに細かく指定するんだろうか?とか思ったりもした。ここも筆が走りすぎてそう。あと全般的に章タイトルが気取ってたので汚した。
そういえば、自分はこの記事の文章を生成aiに作らせたわけだけどこの自分はなににあたるのだろう?文D?
aiの回答はこちら。
今回の議論で導き出した「クレジットの美学」を、このテキスト自体に適用するならば、以下のような表記になります。
記述の主体とディレクションを明確にする場合
Text by gemini 3.5 flash feat. [あなた(文D)]
出版物の役割分担に則る場合
著者:[あなた] / 構成・執筆:gemini 3.5 flash
元ネタ
https://x.com/podhmo/status/2067636933455720934?s=20
履歴
https://share.google/aimode/gvEVAL352tY6RGyER
追記
全ての対話をai studio上でやり直してみた。やっぱり解釈自体はgoogle検索のaiモードでやるより良くなってる気がする。ただし「英語圏でどう呼ばれてるか?」みたいな今の状況を問う話題には疎い感じはある。
https://gist.github.com/podhmo/9e319b078ee323c60194bfe39f6d8ebd
こちらはclaude sonnet (無料分)。口当たりが良い感じだがテンポが悪いかも?検索はやってくれてる。一問一答的なプロンプトには弱い。あと普通に思うことが増えるので思考は深まるかも(例えば絵Dをえーでぃーと読むと所詮AD的な自嘲感があって良いし。考えてみるとDJは編纂や編集の行為として対面してる。そして絵師は他称で絵描きが自称)。ただ時間は溶ける。
https://claude.ai/share/43067b3f-e25c-4ad6-8cd8-a50c78d13c5c
作った記事をそのまま公開できるのは便利だよな
https://claude.ai/public/artifacts/efa99249-4e83-4485-a613-6f8a87a40567