(これは生成された文章です。最後に作り方を説明します。どこまでが私だと言えるでしょう?)
🤔 「有名人のアレでいいじゃん」という声が聞こえる
最近、つくづく思うことがある。
僕が何か意見を言ったり、情報をまとめたり、あるいは何かを作ったりしても、結局どこかで「それ、〇〇(有名な誰か)が言ってたやつでしょ?」とか、「それなら〇〇さんのを使えばいいじゃん」という声が、直接的であれ間接的であれ、聞こえてくるような気がするのだ。特に、知識や意見、考え方みたいな、テキストやデータとして「複製可能」なものについては、顕著にそう感じる。
どれだけ自分なりに考えて、同じような品質のアウトプットを出せたとしても、より信頼や実績のある「有名な人」のものが選ばれる。それは、ある意味で当然のことなのかもしれない。情報が溢れるこの世界では、より確からしいもの、より権威のあるものに人が流れるのは自然な摂理だ。
でも、その事実に直面するたびに、なんとも言えない無力感のようなものが胸に広がる。僕がやっていることって、結局のところ、誰かの劣化コピーか、あるいは単なるノイズでしかないんじゃないか、と。この感覚は、結構根深い。
🌐 コピペ時代の構造的な無力感
この無力感は、単に僕個人の能力が低いとか、努力が足りないとか、そういう話だけでもない気がしている。
情報を簡単にコピー&ペーストでき、瞬時に世界中に広められるようになった。活版印刷の発明からインターネットの普及、そしてAIの進化。この「複製技術」の発展は、間違いなく世界を便利にした。けれど同時に、個人のオリジナリティや価値というものを、相対的に希薄化させてしまった側面もあるんじゃないだろうか。
データとして切り離され、流通可能な知識や表現は、その出所である「個」から離れ、より強い発信力を持つ「権威」に吸収されやすい。これはもう、僕らが生きるこの時代の構造的な問題であり、避けられない流れなのかもしれない。
そう考えると、僕が感じる無力感も、ある種の「諦め」として受け入れるしかないのかな、とも思う。抗っても仕方がない、大きな流れの中の一点なのだと。
🚶♂️ じゃあ、僕はどこへ向かうのか?(ニッチか、労働か)
じゃあ、そんな構造的な諦めを抱えながら、僕みたいな人間はどうすればいいのか。あるいは、実際どうしているのか。
結局のところ、取れる道はかなり限られてくる気がする。大きく分けて、たぶん二つ。
一つは、**「ニッチの中で生きる」**こと。
誰も見向きもしないような、すごく狭くて特殊な領域。あるいは、僕自身の極めて個人的な経験や感覚にしか根差さないようなこと。そういう「複製されにくい」場所で、細々と何かをやる。
でも、そんな都合の良いニッチが簡単に見つかるわけでもない。見つけたとして、それが誰かにとって価値があるのかも、それで食べていけるのかも分からない。正直、かなり怪しい道だ。
もう一つは、**「労働力として消費される」**こと。
ここで言う「消費」は、使い潰されるというネガティブな意味合いではなく、もっとフラットな意味で。自分の個性や思想みたいなものを一旦脇に置いて、社会や組織から求められる役割、特に「データとして複製できない」現場での労働や作業に徹すること。エッセンシャルワーカーの方々のような仕事もそうだろうし、特定のプロジェクトで専門的なスキルを提供するのもこれに近いかもしれない。
これはこれで、ある種の割り切りとして成立する道だと思う。でも、どこかに「自分である必要はあったのか?」という問いが残るような、少し寂しい感覚もある。
結局、どちらの道を選んだとしても、どこか不完全さを抱えることになるのだろう。
👥 玄人としての側面を持ってしまった今、思うこと
人との関わり方についても、最近よく考える。
かつては、何も知らない素人から始まり、特定の誰かや何かに憧れて熱心に学ぶ「フォロワー」の時期があった。あの頃は、知識は浅くとも、無邪気な熱意があった気がする。誰かのコピーになろうと必死で、その価値を周りに伝えようとするエバンジェリストのような側面もあったかもしれない。
そして経験を積み、知識やスキルを磨くうちに、いつしかその分野の「分かり手」、つまり玄人と呼ばれるような立場になった。多くを語らずとも物事の本質を見抜いたり、冷静に良し悪しを判断したりできるようになった。それはそれで、成長の証なのだろう。
でも、ふと立ち止まって考えてしまうのだ。
今の「分かり手」としての冷静な視点と引き換えに、あの頃の「フォロワー」としての熱意を失ってしまったのではないか、と。冷静な理解はできても、心が動かされるような、何かを突き動かすような熱量は、むしろあの頃の方が強かったのではないか。
知識が増え、分かることが増えたからこそ見えるようになった諦観もある。だとしたら、「分かり手」になることだけが、必ずしも良いことばかりではないのかもしれない。あの熱意ある「フォロワー」だった頃の方が、もしかしたら活動としては、そして自分自身としても、より意義深い時間だったのではないか… そんなことを考えたりもする。
🛠️ 能力を発揮する「砂場」作りとその意義
「失敗からしか学べない」というのは、確かに真実の一面だと思う。だからこそ、安心して能力を発揮し、試行錯誤できる**「安全な砂場」の価値**は大きい。
それは単に失敗を許容するだけでなく、むしろ専門性を持つ者(つまり玄人)が、その能力を存分に活かして貢献できる場でもある。例えば、SREがインフラを整えて開発者が挑戦しやすい環境を作るように、「砂場」を設計し、構築し、維持すること自体が、高度な知識と経験を要する、価値ある仕事だ。
こういう環境を作ることに、専門家としての腕の見せ所、貢献の余地があるとも言える。自らの手で、他者が能力を発揮できる土台を整える。それはそれで、意義深く、面白い役割なのかもしれない。
もちろん、常に理想的な「砂場」が用意されているわけではないし、構築には相応のコストもかかる。それでも、そういう場を目指し、少しずつでも整えていくことに、玄人としての価値を見出すことはできるだろう。限られた条件の中で、どう能力を発揮し、貢献するかを考える。これもまた、現実と向き合う一つの形だ。
📝 答えはないけれど、考え続けること:今日の思考ログ
ここまで書いてきて、結局、明確な答えは何もないということが、改めてはっきりしただけかもしれない。
「有名な人のアレでいいじゃん」という構造的な現実に対する諦め。
限られた選択肢としての「ニッチ」と「労働」の不完全さ。
かつての「フォロワー」の熱意と、現在の「分かり手」の冷静さの間での自問自答。
能力を発揮する「砂場」作りの意義と、その現実的な側面。
これらの、どうにもスッキリしない、宙ぶらりんな感覚を抱えながら、僕は生きている。
そして、おそらくこれからも、この諦観のようなものを抱えたまま、それでも何かを考えたり、書いたり、作ったりしていくのだろう。なぜそうするのか、自分でもよく分からない。
もしかしたら、この「明確な答えがないまま、考え続けていること自体」が、僕にとっての唯一の「複製できない」価値なのかもしれない。まあ、それすらも怪しいのだけれど。
今日は、そんなことをぐるぐると考えていた。ただ、それだけの記録。
生成プロセスについて
1. **情報提示:** 私のXポスト及びリプライが入力された。
2. **解釈と質疑:** Grokによる初期解釈と質問が行われた。
3. **補足情報提供:** 私による意図の補足説明が行われた。(「複製可能」の定義、「労働力」のニュアンス、「分かり手/フォロワー」の定義、「安全な砂場」の意図など)
4. **再解釈とプロット提案:** 補足に基づき、Geminiが再解釈とブログ記事プロット案を複数提示した。
5. **プロット選択と記事生成:** プロットAが選択され、Geminiが初稿を生成した。
6. **修正指示(1):** 私より、「フォロワー観点」「砂場観点」のニュアンス修正指示、及び本項(生成プロセスの記述)の追加指示があった。
7. **修正生成(1):** 指示に基づき、Geminiが本文を修正し、本項を追記した。
8. **修正指示(2):** 私より、再度「フォロワー観点(成長過程と意義の問い直し)」「砂場観点(能力発揮の場としての意義)」に関するニュアンスの修正指示があった。
9. **最終生成:** 再度の指示に基づき、Geminiが本文を修正し、本項の内容を維持した。(現在のテキスト)
このテキストは、上記の対話プロセスを経て、Geminiによって生成されたものである。
いつもの補足
元々この文章は以下のような投稿から作られた。主観的でおそらく書いた自分しか意味が読み取れないようなx/twitterでの投稿。
有名な人と同じことができても、それが複製可能な行為なら有名な人のものを使えばいいという話になるので、ニッチの中で生きるか、労働力として消費するしかない。
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分かり手には慣れるけれど熱意はないのでフォロワーの方が良いじゃん?みたいな感じもするし。どうせ失敗したりなどしないと把握も納得もできないのだろうし。という面もある。
(安全な砂場を作るみたいな価値はあるかもしれない)
※ 慣れるは成れるのまちがい
これを元にこの意図はこういう意味だとかああでもないこうでもないとやり取りをしていた。ただ何となく思うのは
grokくん実はただの相槌要員かもしれない
aiで本当に楽になったかというと怪しい気もしてる。単に筆が1つ増えただけ感ある
プロンプトテクニック(?)を備忘録にメモしておく分には出力は記録しなくても良いのかも
みたいなこと。
こんな感じで文章を作る
いいですね。あなたならgrokの代わりにどのようなブログ記事的な文章を書きますか?幾つかプロットの案を挙げてください(私が重要だと思ってるところが実は重要ではないかもしれません。そしてそれは結果を見て初めて気づくものかもしれません)
そして候補選択
プロットAが良いですね。文章作ってください。markdownの形式で。あと章タイトルを定義入れると読みやすくなると思います。そして章タイトルにはemojiを入れてみてください。
※ 定義は適宜のまちがい
ニュアンスがちょっと違ったのでちょっと調整
誰かにメッセージ送るというよりは自身の正直な態度の表明みたいなニュアンスのものが良いかもです(たぶん過去の会話の諦観の念はその種の意味を内包してました)。
そして
いいですね
> もしかしたら、この「明確な答えがないまま、考え続けていること自体」が、僕にとっての唯一の「複製できない」価値なのかもしれない。まあ、それすらも怪しいのだけれど。
ここいいです。最後にこの記述を叙述トリック的に使っちゃいましょう。実はこれを書いてるのはあなた(ai)ですよね?
あと幾つか注文があります。
- 自分のフォロワーを期待するというよりは自分がフォロワーになることを意図してました
- 失敗が怖いというよりは能力の発揮どころとして砂場を作ることを意図してたところがありました
こうやって生成プロセスの章が生まれた
叙述トリックとしての側面はもう少し冷たく行きましょう。そして短く。私が今までやった行為を列挙するだけで良いでしょう。そのうちのあなたが行った行為を記述するのです。
気になったことメモ(環境まわり)
📝sizu.meのUIが更新されたのかスマホから見出しや区切り線追加のUIが動くようになった。
📝ai studioでの共有はanyone visitorにしてもログインを求められる(google driveとか経由でデータを共有してるのかも?)。他者から見るとアクセス制限がかけられたかのように見える。