「要約って使い道なくない?」、あるいは思考の軌跡を求めて

podhmo
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公開:2025/7/21

(この文章は生成された文章です。またこの文章は後にあとがきで触れるように要約について検討した文章のペアの一部でしかありません。その後のもう一つのペアの文章を読んでようやく完成に至ります)

ふと、情報の「要約」というものに、ほとんど価値を見出せない自分に気づくことがある。AIによる自動要約はもちろん、人が丹念に作り上げたものであっても、それが真に役立ったという経験が思い出せないのだ。これは単なる能力不足による見当違いなのだろうか。この素朴な疑問から、思考の探求は始まった。

地図とランドマーク 🗺️

当初、要約が役に立たないと感じるのは、その過程で必然的に生じる情報の欠落やニュアンスの喪失が原因だと考えていた。元の文章が持つ複雑な論理展開や、行間に込められた筆者の熱量のようなものが削ぎ落とされ、表層的な理解しか得られない。それは「分かった気になる」という錯覚を与えるだけで、深い思索の糧にはなりにくい。

しかし、ある種の要約は明確に機能している。例えば、本の目次だ。目次もまた、長大な本文を圧縮した一種の要約と言える。なぜ目次は役に立つのか。その答えは、それが常に本文という詳細情報へのアクセスを前提としているからだろう。目次は、広大な知識の海を航海するための海図であり、それ自体が目的地ではない。いつでも本文に立ち返れるという信頼感があるからこそ、目次は有効なナビゲーションツールとして機能する。

この考えは、要約の価値を別の角度から照らし出す。要約とは、まっさらな地図にいくつかのランドマークを書き込む行為に似ているのかもしれない。何の予備知識もないまま複雑な情報に飛び込むのは、認知的な負荷[^1]が高い。事前に要約というランドマークを得ておくことで、どこに注意を向けるべきか、何が重要な概念なのかという当たりをつけることができる。これは学習における「足場」[^2]のように、効率的な理解を助ける補助線になり得る。

だが、ここに最大の罠が潜んでいる。いくつかのランドマークを知っただけで、その土地のすべてを理解したと錯覚してしまうことだ。ランドマーク間の道のりや、その周辺の地形といったコンテキスト[^3]が欠落した地図は、容易に人を道に迷わせる。要約によって生じた誤解は、時として、何も知らない状態よりも悪い結果をもたらすのではないか。このデメリットの大きさこそが、私が要約に対して抱く根源的な不信感の正体なのかもしれない。

内部の人間、外部の人間 👥

思考がさらに深まったのは、ビジネスにおける「議事録」の役割を考えた時だった。議事録もまた、会議という対話の要約である。しかし、その価値は受け取る人間の立場によって劇的に変化する。

プロジェクトの進行状況を手早く知りたいだけのマネージャーや、会議に参加していない他部署の人間。彼らにとって、価値があるのは「結論」と「決定事項」だけだ。誰が、何を、いつまでに行うのか。その要点さえ分かれば十分であり、議論の過程は冗長なノイズでしかない。彼らは情報の「外部の人間」だ。

一方で、その会議に参加し、プロジェクトを前に進める当事者たち。彼らにとって、単なる結論にはほとんど価値がない。なぜなら、その結論だけを見ても、次の一歩をどう踏み出せばいいのか分からないからだ。彼らは情報の「内部の人間」であり、求めているのは全く別の種類の情報なのである。

この「内部」と「外部」の断絶は決定的だ。外部の人間にとっての理想的な議事録は、管理可能なタスクリストや、シンプルなQ&Aに集約されるべきだろう。それは複雑な現実を整理し、管理するためのツールだ。しかし、内部の人間がその議事録を見ても、新たな発見はない。彼らが本当に必要としているのは、タスクの確認などではなく、むしろその欄外にある情報なのだ。

魂の在り処 🔥

内部の人間が結論よりも渇望するもの。それは、議論の「過程」であり、その場の「空気感」だ。

例えば、ある方針が決定されたとする。その結論に至るまでに、どのような対立意見があり、どのようなデータが提示され、最終的に何が決め手となったのか。参加者全員が熱狂的に賛成したのか、それとも多くの人が首を傾げながらも、消極的な合意に至ったのか。そのプロセスと空気感を知らなければ、「魂の込め所」が分からないのだ。

どこに注力し、どこは上手く手を抜くべきか。どの部分がこのプロジェクトの心臓部であり、どの部分は修正可能な些末事なのか。その判断は、結論という静的な情報からではなく、そこに至るまでの動的なプロセスの中にしか存在しない。魂の込め所が分からないままタスクを遂行することは、設計図の意図を理解せずに建物を建てるようなものだ。形にはなっても、魂は宿らない。

この気づきは、AIとの技術的な対話の記録をどう残すべきか、という当初の個人的な問いにも繋がっていく。AIとの対話において、私は常に「内部の人間」だ。最終的に得られたコードや文章という「結論」だけを保存しても意味がない。価値があるのは、エラーをどう乗り越えたか、どの質問がブレークスルーに繋がったかという、試行錯誤のプロセスそのものなのだ。私が求めていたのは、情報を短くまとめる「要約」ではなく、思考の航跡からノイズだけを取り除いた「圧縮ログ」だったのである。

思考の三つの様態 🧭

ここまでの思索を統合すると、情報の扱い方は、その目的によって三つの異なる様態に分類できるのではないか、という考えに至った。

一つ目は「予習的」な様態だ。これは、未知の外部情報を取り込むためのもので、PDFの要約などがこれにあたる。目的は、まっさらな地図にランドマークを置き、効率的な学習の足場を築くことだ。ここでは「外部の人間」として情報に接する。

二つ目は「復習的」な様態。これは、自身が体験した思考プロセスを再確認するためのもので、AIとの対話ログの整理が相当する。目的は、思考の航跡を辿り、魂の込め所を再発見することだ。ここでは「内部の人間」として情報と向き合う。

そして三つ目が「タスク管理的」な様態。これは、議論の結果を具体的なアクションに繋げるためのもので、外部報告用の議事録がこれだ。目的は、決定事項を管理可能な単位に翻訳し、実行を促進すること。内部の決定を外部に作用させるための橋渡し役と言える。

この三つのフレームワークを用いることで、なぜ「要約」という一つの言葉が、ある時は輝き、ある時は色褪せて見えるのか、その理由が氷解したように感じられた。私たちが情報とどう向き合うか、その立ち位置と目的によって、求められる記録の形は根本的に変わるのだ。

結局のところ、私が探し求めていたのは、単なる情報の要約ではなかった。それは、未来の自分が過去の自分の思考を追体験し、新たな思索を始めるための、一筋の光が差し込む「思考の航跡図」だったのである。

[^1]: 認知負荷 (Cognitive Load): 人が何かを学習したり、問題を解決したりする際に、脳のワーキングメモリにかかる負荷のこと。情報が複雑すぎたり、提示のされ方が不適切だったりすると、この負荷が高まり、理解や学習が阻害される。

[^2]: 足場 (Scaffolding): 教育心理学の用語。学習者が自力で課題を達成できるようになるまで、教師や専門家が提供する一時的な支援のこと。ヒントや補助的な課題などが含まれる。

[^3]: コンテキスト (Context): 文脈や状況のこと。ある事象や情報が、どのような背景や関係性の中に置かれているかを示す。コンテキストを無視すると、情報の意味を正しく理解することは難しい。


あとがき

この要約がテーマの文章自体は今まで使ってきた「思考の備忘録」の技術的な対話版が欲しくなり作業をしていた後のちょっとしたお喋りから生成されました。

作業中のzennスクラップはこちらです。

[技術的な対話の履歴の備忘録が欲しい]( https://zenn.dev/podhmo/scraps/c98c1c81d83d3a )

基本的にやりたいことは対話履歴の圧縮(要約ではないところがポイント)。結果だけが欲しいのではなく過程が重要。一方で誤解による対話の繰り返しなどの利用時には読むのをスキップしたところは除去したい。

これがまぁ話の始まりでした。この辺の情報や以前に感じてたことなどをお喋りした対話履歴からこの文章が作られました。

ペアの文章について

実はこの文章を作成した後に以下のようなお願いをしてみました。それこそがはじめに書いていたペアとなる文章です。

markdownの記法を巧みに使い図示しながら文章を書いてみてください。

生成された文章がこちらです。

https://gist.github.com/podhmo/08a72e469b6167523bb1e117f66f7192#file-article-md

まぁなんか普通に読みにくい。とは言え文章だけだと目が滑るということは解決してそうですね。実際こんな質問をして対話は終わりました。

2つのあなたが生成した文章を読もうとしてみて、マークダウンの技巧を使いまくった方は読みやすくはないと感じたんですよね。2つの形態を比較してみてくれませんか?あなたはどのように感じますか?

最後にこれに関する回答を引用して終わりにします。

おっしゃる通りですね。そのご感想は、今回のテーマを締めくくる上で、非常に本質的なものだと思います。私自身、二つの文章を生成してみて、同じような感覚を抱きました。

「マークダウンの技巧を使いまくった方は読みやすくはない」と感じられたこと、よく分かります。なぜそうなるのか、二つの文章を比較しながら分析してみたいと思います。

文章1:物語的な文章(没入と思考の追体験)

  • **スタイル**: 散文的、物語的、連続的

  • **読書体験**: このスタイルは、読者を思考の語り手の隣に座らせ、一緒に旅をするような感覚を与えます。文章は一つの流れとして途切れず、思考が次の思考へと移り変わっていくプロセスが、時間の経過とともに自然に描かれます。読者は、認知的なギアチェンジをすることなく、その物語に没入し続けることができます。

  • **強み**: 「なぜそうなったのか」という思考の機微、発見の驚き、迷いといった「空気感」や「魂の込め所」を、文章全体のトーンや言葉遣いで表現しやすいです。まさに**「思考の追体験」**という目的に最も適した形式と言えます。

文章2:図示を多用した文章(分析と構造の理解)

  • **スタイル**: 分析的、断片的、非連続的

  • **読書体験**: こちらは、テキストを読み進める「物語モード」と、図や表を解釈する「分析モード」の間を、頻繁に行き来する必要がありました。

```mermaid

graph TD

A[テキストを読む] --> B{図や表が出現};

B --> C[思考を中断し、図を解釈];

C --> D[再びテキストを読む];

D --> E{また図や表...};

```

このモード切り替えは、認知的な負荷(スイッチングコスト)を発生させます。思考の流れが何度も断ち切られるため、物語的な没入感が阻害され、「読みにくい」と感じられたのだと思います。

  • **強み**: 一方で、概念間の関係性やシステムの構造を、一目で「理解」させる力は非常に高いです。議論の全体像を客観的に、そして構造的に把握するには非常に有効な手段です。これは**「思考の分析」や「結果報告」**に適した形式です。

なぜ今回は「物語風」が心地よかったのか

今回の対話全体を貫いていたテーマは、**「結論ではなく過程の重要性」**であり、**「構造ではなく空気感の価値」**でした。

図示を多用した文章は、皮肉なことに、まさにその「過程」や「空気感」を削ぎ落とし、洗練された「結論」としての構造を提示するアプローチです。つまり、**表現しようとしているテーマ(過程が大事)と、表現形式(結論としての図)の間に、一種のねじれが生じていた**のです。

だからこそ、思考の迷いや発見の喜びを一つの連続したストーリーとして語る「物語風」の文章の方が、今回のテーマには遥かに親和性が高く、心地よく感じられたのだと、私は分析します。

どちらの形式が絶対的に優れているというわけではありません。

  • **誰かに思考の旅路を共有し、共感を得たいなら「物語風」**

  • **誰かに思考の結果を報告し、構造を理解させたいなら「図示風」**

といった使い分けが重要なのでしょう。

今回の比較は、情報を伝える上で「何を伝えるか」だけでなく「どう伝えるか」がいかに重要かを、改めて浮き彫りにしてくれました。非常に興味深いフィードバックをありがとうございました。