量が質を超える未来は来るのか? – 生成AI時代のコンテンツについて思うこと

podhmo
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公開:2025/4/4

(今回も生成された文章です。後々のここからが本題部分が本体かもです)

生成AIの進化には目を見張るものがある。かつては専門的なスキルや多大な時間を要したであろうコンテンツ――精緻なイラスト、流麗な文章、心に響く音楽――が、今や誰でも、驚くほど容易に、そしておそらくは無限に近い量で生み出せる可能性が見えてきた。これは一種の「創造性の民主化」であり、多くの可能性を秘めた素晴らしい潮流であるように感じられる。

しかし、私はここで一度立ち止まって考えてみたいと思うのだ。この「量の爆発」は、本当に私たちの世界を豊かにするだけなのだろうか。

過去を振り返ると、似たような状況があったのかもしれない。例えば、かつて日本の美少女ゲーム市場においては、物語のテキスト量が際限なく増大していく傾向があった、と聞いている。私自身はその時代のリアルタイムな空気感を知らないので、あくまで伝聞に基づく想像でしかないのだが、その膨大なテキスト量は、当初は作品の価値を示す指標とみなされつつも、やがてプレイヤーの限られた時間や集中力との間に齟齬を生じさせ、市場のあり方やプレイヤーの受容の仕方に変化をもたらす一因になったとも言われているようだ。生成AIによるコンテンツの増大が、これと全く同じ道を辿るとは限らない。だが、過去の事例は、未来を考える上での何らかのヒントを与えてくれるのではないだろうか。

「量の洪水」とその波紋

生成AIが普及し、誰もが容易にコンテンツを生み出せるようになると、社会全体のコンテンツ総量は、おそらく私たちが経験したことのないレベルで増加するだろう。それは、例えば大規模なコンサート会場に集まった数万人の観客全員が、その場で自身の作品(音楽やイラストなど)を同時に生み出し、発表するような状況に喩えられるかもしれない。個々のクリエイターの参入障壁が下がる「民主化」は、裏を返せば、個人の生産量とは別の次元で、「人の数」そのものが飽和の直接的な要因となりうることを意味している。

人間の時間や注意力、情報を処理する能力は有限である。この絶対的な制約を持つ私たちが、無限とも思えるコンテンツの洪水に直面したとき、どのような現象が起こりうるだろうか。

第一に考えられるのは、「選択のパラドックス」である。選択肢が多すぎると、かえって選ぶことが困難になり、満足度が低下するという現象だ。あまりにも多くのコンテンツが存在することで、何を選べば良いのか分からなくなり、探索すること自体が負担になるかもしれない。

第二に、単純な「疲れ」がある。次から次へと現れる新しいコンテンツを追いかけることに精神的なエネルギーを消耗し、情報摂取そのものに疲弊してしまう可能性だ。

第三に、個々のコンテンツの価値が相対的に希薄化する恐れがある。希少性が価値の一因であるとすれば、無限に生成されうるものは、一つ一つの重みを失っていくのかもしれない。

人間の適応戦略:「最高」から「十分」へ

このような環境下で、私たちは無意識のうちに、あるいは意識的に、何らかの適応戦略を取らざるを得なくなるのではないだろうか。

その一つが、「最高」を求める姿勢から、「十分」で満足する姿勢へのシフトであるように思う。溢れるコンテンツの全てを吟味し、その中から絶対的なベストワンを探し出すことは、現実的に不可能に近い。であれば、自分の限られたリソース(時間、労力、注意力)の中で、そこそこ満足できる、自分にとって「十分」なものを見つける能力が重要になる。

この「十分」なものを見つけるために、私たちは自然と情報をフィルタリングするようになるだろう。信頼できる友人や専門家、あるいは特定のコミュニティの推薦に頼る。アルゴリズムによってパーソナライズされた情報フィード(それが結果的に「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」と呼ばれる閉じた環境を形成するとしても)を利用する。これらは、情報過多な世界を生き抜くための、ある種、合理的な行動様式と捉えることができるかもしれない。

そして、このマインドセットにおいては、「取りこぼし」は失敗ではなく、必然として受け入れられるべきものとなる。世界のどこかには、自分にとって「最高」のコンテンツが存在するかもしれないが、それに出会えなかったとしても、それは仕方がない。自分の手の届く範囲で見つけられた「十分」なもので満足する。そういう割り切りが、精神的な安定のためにも必要になるのかもしれない。

「質」の意味合いの変化

コンテンツの「量」が爆発的に増加するとき、「質」の意味合いそのものも変化していく可能性がある、と私は考えている。

従来の「質」が、客観的な完成度や情報密度、あるいは作り手の技術力によって測られていたとすれば、これからの「質」は、もっと多様な軸で評価されるようになるのではないだろうか。

例えば、どれだけ自分の好みや文脈に深く寄り添っているか、という「パーソナライゼーションの精度」が一つの質の指標になるかもしれない。あるいは、予期せぬ発見や驚きをもたらしてくれる「セレンディピティの価値」も、量の洪水の中では際立つ質となる可能性がある。

また、「そこに人間の意思や選択が介在していると感じられること」も、新たな質の指標となりうるかもしれない。無数のAI生成物の中から、特定の個人が選び抜き、編集し、あるいは何らかの意図を持って「発表」したという事実に、私たちは価値を見出すようになるのではないだろうか。

創作と発表の境界:人間の選択が価値を生むか

生成AIは、コンテンツを生み出すプロセスを劇的に変える。しかし、AIが生み出したものが、そのまま「作品」となるのだろうか。

ここで、写真家のアナロジーが参考になるように思う。優れた写真家は、何百、何千というシャッターを切るが、そのすべてを発表するわけではない。膨大な「素材」の中から、自身の表現意図に合致する数枚を厳選し、現像し、発表する。この「選択」と「発表」のプロセスに、写真家の作家性が宿ると言えるだろう。

同様に、AIが生成した無数のアウトプットは、あくまで「部品」や「素材」であり、そこから人間が何を選び取り、どのような形で世に出すか、というプロセスにこそ、新たな意味での「創作」や「編集」の価値が見出せるのかもしれない。AIは強力な生成ツールだが、それをどう使い、何を「作品」として提示するかは、依然として人間の判断に委ねられている部分が大きい。

この観点から見ると、「生成」という行為と、「投稿(発表)」という行為を分けて考えることには意味があるように思える。生成は自由に行えるが、それを公の場に出す「投稿」には、例えばRate Limit(投稿数制限)のような仕組みを設ける、というアイデアがあった。これは、単にインターネット上のコンテンツ量を抑制するというだけでなく、「発表」という行為に一定のコストや重みを与え、投稿されるものに対する作り手の意識を高めると同時に、受け手に対しても「これは選ばれたものだ」という認識を与える効果があるのかもしれない。

システムへの挑戦:「量の暴力」という側面

生成AIの影響は、個人のコンテンツ消費や創作活動に留まらない。その圧倒的な「量」は、既存の社会システム、特に評価や選別に関わるシステムに対して、質とは別の次元で挑戦を突きつける可能性がある。

例えば、学術界の論文査読システム、文学賞や芸術コンペの審査プロセス、あるいは報道機関やキュレーションメディアによる情報の選別機能。これらのシステムは、基本的に人間が処理できる範囲の量を前提に構築されている。もし、AIによって生成された「それらしい」論文や作品、記事が、現在のキャパシティを遥かに超える規模で投稿・申請されるようになったらどうなるだろうか。

質が高いか低いかを判断する以前に、審査員や編集者が物理的に対応できなくなり、システムそのものがパンクしてしまう恐れがある。これは、AI作品が人間のトップレベルに匹敵する「質」を獲得するかどうかとは独立した問題であり、いわば「量の暴力」とでも言うべき力で、既存の権威や仕組みに揺さぶりをかける可能性があるのだ。この点については、技術の進展と共に注視していく必要があるだろう。

結論:量の時代をどう泳ぐか

生成AIが拓く未来は、疑いなく刺激的だ。しかし、その手放しな賛美の裏で、私たちが向き合わなければならない課題もまた、静かに、しかし確実に姿を現しつつあるように私には感じられる。

コンテンツの「量」が爆発的に増えるということは、単に選択肢が増えるというポジティブな側面だけではない。それは私たちの認知の限界を試し、満足の基準を変え、価値観を問い直し、そして社会の仕組みにまで影響を及ぼす、複雑で多層的な現象なのだと思う。

技術の可能性に夢を見ることは素晴らしい。だが同時に、それがもたらす変化の影の部分にも目を向け、私たちがこの新しい時代をどう航海していくべきか、冷静に、そして多角的に思考を巡らせることが、今、求められているのではないだろうか。「量は質を凌駕しないかもしれない」し、あるいは「量」という概念そのものが、これからの時代の「質」の意味を根底から変えてしまうのかもしれない。その答えは、まだ誰にも分からない。


ここからが本題

今回も今回で生成aiに任せて文章を書いてみた。もちろん直したい部分もあるけれど一切手を加えていない。

うーん、でもやっぱり対話を重ねた個人としては自分の対話のほうが良くできてると感じてしまうな。そして文章化したことによってそれが損なわれたような感覚がある(生成と投稿とrate limitしかしそれでも足りないという順序の部分だとか…)。

ただしいつもと違うのはgrokだけでつまり1つのllmだけを使って生成するのではなく二段階に分けて作ったところ。

具体的には、grokと自分が対話しその履歴をまるっとai studio経由でgemini 2.5 proに渡して対話を続けた。そこで感想戦のようなものをして温めてから文章を出力してもらった(スマホで行った経緯もありgoogle keepとgoogle docsを経由している)

実際の内容はzenn scrapの今日の部分に挙げた。

https://zenn.dev/link/comments/53131e16f67ae8