「こもりぃ、ごめんもう無理」
その瞬間、『私の名前はみそかです』という言葉を飲み込んだ。
玄関先から飛び出して日の光に焼かれた先輩は、敷地を出る事すらなくフラフラとしゃがみ込んでしまった。このもやしは長年の地下暮らしでついに地上で暮す能力すら失ってしまったらしい。
呆れからか溜息一つ。こうなる気がしていたんだ。兎の癖に土竜の如き生活を送る我が先輩が、冬場の屋内でひっくり返るカメムシより酷い醜態を晒す気が。
「せんぱい、取り合えず日陰に行きましょう」
ここから一番近い日陰は先ほど飛び足した玄関先。畢竟、本日の散歩は終わりである。
「ごめんね、ごめんね、こもりぃ」
そう言ってうずくまってしまう先輩。どうやら気分が落ち込みやすい時期に入っていたらしい。消え入るような声がチクチクと罪悪感を刺激する。
……失敗したなぁ。私はこの人を、沖を追い詰めるつもりなんて無かったのに。
「謝る必要なんてないですよ。私が悪かったですから。ほらちょっとだけ頑張りましょ、せんぱい」
こう言う所が甘いのかなぁ、とは思いつつもこればっかりは仕方が無い。無理に追い立てる必要は無いし、元々何処までも付き合うつもりでいるのだから今更な話だ。
おもむろ近づき、膝をつき、目線をできるだけ下げて取り合えず言葉を一通り吐き出すまで静かに待つ体制を作った。
「それもあるけどさ。こんな不甲斐ない私に付き合わせてさ。全部捨ててまで付き合っ合わせてさ。全部押し付けちゃってさ。でも、ちっとも報いてあげられなくてさ。ごめんね」
具体性の無い言葉がぽろぽろと零れて来る。こうやって感情が漏れ出してしまうあたり、今日は本当に体調が悪いみたい。
「いや部屋の掃除ぐらいは自分でやって下さいよ。生活破綻者一歩手前じゃないですか。何ですかあの本と紙屑の山。ちゃんとまとめて管理してくださいよ。それ以外は別に構いませんですけど」
「ごめんね、ごめんね……。後でちゃんと掃除するからっ」
嘘つけ、と言わない程度の情けは自分にあったらしい。下手に部屋に転がってる参考文献と走り書きの山に手を出すと大体後で騒ぎ出す。あれで何処に何があるのかを把握して分類分け出来ているのだから、とっても不思議。
「いつもいつも何もできなくてっ。気が付いた時には手遅れでっ。頑張ったつもりなんだよ、これでも。ほんの少しでも同じ失敗したくなくて、できることを精一杯やった積りでも、何の役にも立たなくてさっ。もう、時間は無いのに。今回だって、きっと多くの子たちが外に落ちて逝くだろうに、それを気っと私はほんの少しだって止められない!!」
随分と支離滅裂ではあるけど、嗚呼、なるほど。だから随分落ち込んでいたのか。
「どうして、いつもいつも全部手のひらから零れおちてくんだろうね。どうして、わたしはこう、いつもいつもどうしようも無いんだろうね。わたしはっ、何時だってわたしを認められる気がしない。どうしてこんなに愚図なんだろうね。今だって」
そこから先はもう言葉になっていなかった。ここまで感情的になるのは随分と久しぶりで、でも、思い返してみれば前回も『夜』が近くなるこの時期にこうして、無茶して、体をボロボロにして、癇癪をおこしていた。
なんで忘れてたんだろう。ここの所の忙しさのせいで、私自身余裕が無かったのかもしれない。本当に無理をしていたのは、もしかして、私のせいだったのかも。
そう気が付いてしまえば、もう、彼女を無理に地下から引きずり出す事は、私には出来ない。でも、それでも、あのハリボテの日の光ぐらいは浴びて欲しいかった。
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思い返してみれば、私がこの人に着いて行くと決めたのは何時だったか。彼女たちの故郷をしらす方々が変わったとき? 寝食を共にした結果、気が付いたら同胞になっていた時?
いいえ、多分違う。不思議な話とは思うけど、初めて沖に出会い助けられたあの瞬間から、全て決まってしまったんじゃないかなと思う。
元々は確か海岸線を調べるために入江から小さな船を出して、陸地を目印に海に出た事だと思う。別段大層な冒険をするをするつもりはさっぱり無くて、それこそ本当に舟遊びの範囲で済ませるつもりだった。
ただ気が付いた時には風向きが変わっていて、あれよあれよと沖に流されて見事に漂流していた。海を舐めていた自分が悪いと言えばそれまでだけど、あの時はとても焦って不安だったのを覚えている。
気を抜いたつもりも無いし、出来る限り注意も払っていたつもりでも、気が付いた時には陸地は地平線の向こうへと沈み込み、方向感覚も完全に失い、ただ太陽の位置だけを頼りに、青と白の境界線にぽつんと一人取り残されていた。
後悔はあった。自分の愚かさを呪った。己のちっぽけさは嫌と言うほど思い知らされた。地平線の向こうから迫ってくる雲の大群と影は何より恐ろしかった。そして何より、心細かった。
ここで私は終わるんだなって。
それを自覚して、自覚せざるをえなくって、それから体の芯から何かが抜けてしまったような気がした。すると不思議な事に、吸い込まれてしまいそうになる空も底なしの海も、もう二度と見る事が出来ない景色が素晴らしく愛おしいように感じれていた。
本当に本当に不思議な感情で――。
すべての悪あがきを止めた後、せめて最後のその瞬間を心穏やかに迎えられるように、沈む太陽へと続く光の道をうとうとと眺めながら、このまま苦しまずその時を迎えられていいな、なんて他愛の無い事を考えていたような気がする。
正直、もうその先の記憶は曖昧だ。随分気疲れしていたものだから、多分そのまま寝ちゃったんじゃないかな。記憶の片隅に色々な音残っていたような気もするけど、今となっては曖昧だ。
ただその先で誰かの声が聞こえて。
突然視界と意識が明瞭になり、気が付けば青が広がっていた。そこから照り付ける光。その端で影が動いたような気がした。それを意識してしまえば幽かな衣擦れ音や吐息、というか人の気配。自然と視線を上げるように頭を上げると見えたのは逆さまの顔。
「大丈夫?」
「そう見えます?」
「えっと、見えないけど、取り合えず意識はあるのかなって」
私たちの最初の会話はそんな極めて簡単なものだった。それでも今でも覚えているのはそれだけ印象的だった、というか安心したからだろうか。さらっと軽口が出て来るあたり沖の顔を見て精神的な余裕ができていたみたいだし。
「すみません、助けてもらっていいですか? ちょっと海難事故に遭ってしまったもので」
「ありゃ、案外余裕そう」
「まったく余裕はありませんよ。少し気を抜いたら泣き出したいくらいにはきついです。ええ、ただ今ここであなたに見捨てられたら助からないので」
当時の私は本当に随分な事を言っていたと思う。というか本気で助かる気があったのか疑いたくなるぐらいに酷い言い草。ただまあ、当時の私はまだこの地の人々に対する隔意があって、普段は表に出さない様にしていたものの追い詰められて素が出ていたみたい。と、言うことにしておいて下さいな。
「見捨てないよ。見捨てるわけ無いじゃん。もう大丈夫だからね。きっと、うん、絶対に私が何とかするからね」
「ひっどい安請け合いですね、本当。でもっ……後の事は……お願いします」
そうしてまた疲れ切った体に引っ張られるように睡魔が意識を奪うそのさなか、あの子が笑顔を見た気がした。
「大丈夫、私がずっとついてるから」
多分あの時だったと思う。取り立てて特別な何かがあった訳では無いけれど、でもこの時に決めたのだ。この言葉を決して嘘にはしないと。理由は自分でもよく分からないけど、でもそう誓ったんだ。
後日聞いた話。沖が私を発見できたのは当時島から本島へと旅立った友人を心配して、手が空いた時に海岸を見回っていたからだそうだ。なんでもその時誘われたものの海を渡るのが怖くて断ったものの、心配になりそんなことをよくしていたらしい。
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「せんぱい、知ってますか。典型的な洗脳の手法ではターゲットを肉体的、精神的に追い詰めた後、都合の良い言葉をかけて刷り込むらしいですよ」
「っ……、何、こもりぃ……突然……、変な事……言い出して……」
「いえ、こっちの話ですよ」
つまりは自己洗脳だった訳だ。我ながらチョロい。それで絆されて自縄自縛になってるんだから酷い話だ。それを自覚したからと言ってこの鎖を手放す気が無いのだから度し難い話で。
「……? こもり、笑ってるの?」
「っ、そう見えました? せんぱい」
「うん」
そう、か。笑ってたのか。そうかそうか、これは随分重症だ。一度指摘されてしまえば何が可笑しいのかさっぱりわからないけど、でも、自分でも止める事が出来なかった。よく分からない気恥しい感情が抜けるまで一頻り笑うと、空だからぽっかり何かが抜け落ちてしまったような気がした。有体に言うと憑き物が落ちたのだろう。
すると先ほどまで突き動かしていたものが、焦燥感だったことに気づく。きっと私も、『夜』が近づいてきて焦っていたんだろう。近頃では司書達の往来も激しくなり、北の連中の動きもかなり活発になってきている。また、今回うちの子達のいくらかは北に送り出す事になるだろう。
先輩を無理やり外に連れ出そうとしたのも、ここの所無理を重ねる姿を慮って、なんて建前をつらつらと自分に言い聞かせてはいたけど、実際は不安から先輩に頼りたかっただけなのかもしれない。
突然笑い出した挙句口を閉ざしてしまった私を怪訝に思ったのか、地べたに座り込んだまま、泣きはらした後の僅かに濡れた目で先輩は見上げていた。
「こもり? どうしたの? 大丈夫?」
「その言葉はそのまま返しますよ、せんぱい。情緒不安定も過ぎるとどう接したらいいのか分からなくて、困りますよ、流石に」
「ごめん……」
「えっ? ああ、はい」
その、謝られても困る。別段責めてるつもりは無い。強いて言えばちゃんと休んで欲しい所だがここまで無理やり連れだしたのは私なので、そもそもどの口でという話だ。
なんというか今日は本当にかみ合わないな。どうにも言動がちぐはぐで仕方が無い。そんな事を言いたかった訳じゃないんだ。
「ええっと、そうじゃない、そうじゃないんです。そういうことを言いたかった訳じゃないくてですね。なんというかその、えっと」
「大丈夫、待つよ。ゆっくりでいいから」
待つ、待つか。そう、か。待てばよかっただけなのか。それだけでよかったんだ。
深呼吸一つ。形にすべき言葉は既に決まっている。ただ、実際に口にするのが妙に気恥しいから躊躇っただけで。でも、先輩の様子を見ればその先を言わない訳にはいかないけど。察してくださいじゃ虫が良すぎるよね、流石に。
「ええ、あーと、つまり。その、えっと、――心配してるってだけです。迷惑だなんて思った事は一度もありません。あなたに着いて行くと決めた事も後悔した事なんて絶対にありませんし、もし、本当にもしもそんな不埒な事を考えたとしても、それは、私の責任で、私の愚かさのせいであって、断じてあなたの、せんぱいのせいなんかじゃありません。昔から、ずっとずっと昔から、必死に頑張り続けているのだって知っています」
あー、なにを言ってるんですかねこの口は馬鹿じゃないですかね、アホじゃないですかね、今日はやけに空回りしますね。もう、本当になんでしょうかね。あぁあぁあー。
「そっか、……、うん、がんばるね」
「だから休め言うとるんですが」
「うん、頑張って休むね!」
「だからこの人は、ほんとに」
何でこう自滅するのが分っていながら全力疾走するんですかね。昔からの性分なのではあるけど、本当にもうこの人は。
何でもかんでも抱え込んでしまう性分なんだ。本来一族の長を率いる性分では無いのに古株たちは皆、『外』に逝ってしまい気が付いたら私達二人だけが残されて、この子が長となってしまった。
本当は変わってあげられればよかったけど、元来外様である私が率いるわけにもいかない訳で。
これでは安心してこの子を残して『外』に行く事が出来ない。次の『夜』を意地でも乗り越えないといけない訳だ。これでは溜息の一つも出て来るというものだ。
彼女の視線から顔を隠すように踵を返して屋敷の方へと体を向けてから、目一杯深呼吸をして、覚悟を決め、振り返ってから蹲っている彼女の前に手を差し伸べる。
「沖、私は絶対に最後まで着いて行きます。居なくなったりしませんから。大丈夫です、私がずっとついていますから。だから、安心して休んでください。さぁ、帰りましょう」
こんな口約束で、この子の失う事への恐怖を晴らすことなんて出来るとはおもわないけど、でも、それでも。
水平線の彼方から流れる北風が背中を打ち付け、それが全てを薙ぐように過ぎ去ると、不気味なほど世界の存在そのものが凪いでしまったような気がした。