ちょっと今日は嫌な事(久しぶりにガチギレした)があって眠れそうにないので、つらつらと書き綴ってみたいと思います。
いきなりですが、私は他者をコントロールしようとする行為が非常に苦手です。特に人に指図をするのもされるのも大嫌いな偏屈さんです。理由は簡潔で人間の自由意志を重んじているからです。と、言えばカッコ良さそうですが、単純に他人の事なんざしったこっちゃね、と思ってるだけとも言えるかもしれませんね。
何故なのか。これの理由は簡単、他人の人生に責任は取れないからです。他人が何を望み、何を願い、何を行い、どのような報いを受けるのか。それに関わることは出来ても、そのクオリアそのものは、その人自身のものであり私が引き受ける事ができません。いえ、もっと直截に言いましょう。私はその人の代わりに死ねないからです。
私は死ぬのが怖い。自分の存在を失う恐怖を知っています。だから、他人がその死の瞬間、私のせいで苦しみ、のたうち回ることが恐ろしい。どんなに他人に害悪をもたらした所で無責任でいる事しか出来ないのです。
だから、こういう事ですね。『人は死ぬと言う責任を負っている。だからこそ自分の意志を自由に決める権利がある』、と。この絶対的な命題が存在するため、自由意志を穢すような行為全般に対して筆舌にしがたい嫌悪感を感じてしまうみたいです。難儀な性格だな、ほんと。
逆説的には、『私は私の責任において死ぬ。それが例えどの様な苦痛に満ちたものであっても。だからこそ、私は、私の意志を、生きる意味を絶対に捻じ曲げたくない。でないと、採算が取れない』と、考えているみたいです。死神が取り立てに来るなら、絶対それ以上儲けてやる、みたいな感じっすかね。我ながら引くわぁ……。
なのでまぁ、人を自分の都合で思い通りに動かすとか、自分の都合を押し付けるようなことをしないように、日々気を付けたいと思って生きているわけでごぜえます。不機嫌を人前に見せないようにしようって私のポリシーもここから来てますね。まあ、別の事で現在進行形で迷惑かけてる人がいるので心苦しい限りなのですが……。
で、じゃあお前はどうやって生きてるやんって話ですが、これは合意によるものだと解釈しています。
人と人とが関係を持ち、分業や作業の肩代わりを行うのはあくまで当事者同士の合意基づくものである。なので、当事者の片一方が嫌だと言えば、勿論破棄できるものであるべきだと考えています。だからまあ、基本は自由意志を尊重しながら、相手の合意を取り付ける。ダメなら取引か素直に諦めるってスタンスですね。相手の言動が気にくわないからって、自分の意志を押し付けるようなことはしたくないなって。
ただ突き詰めれば私が生きていられるのは、周りの人間が生きていて良いと合意しているからであって、死ぬべきだと思ったらすぐに吹き飛ぶ程度の命なんですがな、ガハハハハ。はぁ……。
他人にああしろ、こうしろ、こうすべき、ああすべき、なんで思い通りに動かないの、って言う人間にはなりたくないなってだけの話でした。
人間が自分で動かせるものなんて精々、両手両足、頭と口程度ですからね。私が責任を持てるのは高々その範囲だけですし。エピクテトス先生も、『我々次第で無い事を軽く見なさい』とおっしゃってたことですしね。相手がどう思い、何を感じようがそれは先方の問題で、先方が自分で解決すべき事です。手助け位なら出来るかもですが。
だからこそ、自分自身の不機嫌と無礼は私の管轄なので、自分で何とかして人様に迷惑かけないようにせねばならないのですが。
結論。私に愚行権を行使させろ~、と言うお話でした。