図と『言語はこうして生まれる』

pokarim
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公開:2024/11/6

『言語はこうして生まれる』を読んでる。内容は、言語はジェスチャーゲーム・言葉当て遊びのようなもので、その場限りの乱雑な遊びと発明が積み重なって、結果的に意図せず現在の言語体系が作り上げられてきた、というような話。自分はピンカー嫌いでデネット大好きなのでそれはそうだよなと思った。(冒頭の威勢が良すぎてちょっと誇大広告気味ではという疑いはなくもないけれどもここでは関係ないので脇におく)

いまのところ本の内容に違和感はなくてそれはそうだろうという感じなんだけど、図についてあれこれ考えてたことに関係ある気がした。というかこれは図のことだなと思った。

図というのはテキストと比べるとどこかとらえどころがないところがあると思う。フローチャートや可換図式のように形式的な図もあれば、絵やイラストに近いものや、プレゼン資料のポンチ絵とよばれるような傍から見るとかなり混沌としたものに見えるものもある。散布図や折れ線グラフの類もある。図について考えようとしても種類が豊富すぎてどこから始めればよいかもわからない。何がわからないのかもわからなかった。

言語やテキストについての文献はたくさんあるけど図については少ない。数学や科学における図の歴史とかはあったけどポンチ絵のような雑多な図は範囲外だし。そもそも自分が図について何を知りたいのかもわからないので余計に調べづらい。

ただ、このタイミングで言語はジェスチャーゲームだと聞いて何かが腑に落ちた。図も言語だった。図ははっきりとしたルールもなく毎回新しく作られるようなやり方で生産されている。形式的な図ももちろんある。でもそうでないもののほうがたぶんずっと多い。日常的な非形式的な図に規則性がまったくないかというとそうでもなくて、矢印や箱の使い方などそれなりに似たところもある。そうでないと読み解くのは難しいだろう。でも言語の文法のような明確なルールはないように見える。これが言語と図を分ける特徴だと思っていたんだけど、そうではなくて、言語にも明確な文法がなかった時代があって、そもそもいまでも日常会話は文法にそってなどいない。極度に文脈依存で言葉と身振り手振りの混ざった日常会話と、やはり文脈依存で箱や矢印とテキストの混ざった図、そんなに違いはないように思える。

自分の感覚としては図は言語のひとつで非形式的なものが一般的と考えると、なんとなくすっきりした。なにがそんなにすっきりしたのかはわからないけど、図について考えやすくなった気がする。

               🧍→🧍

たとえばこういう人から人へ矢印がむかう図があったとする。これだけだとなにがなんだかわからなくて、矢印のうえに❤️でもかいてあれば誰かが誰かを好きなんだろうなと思う。❤️でなくて好きとか嫌いとか書いてあってもいい。矢印に札束の絵か¥が添えてあったらお金を渡したってことなのかなと思う。こういうのはテキストや記号で意味が補われていると考えてもいいかもしれないし、添えられたテキストまで含めて全体がひとつの図でありひとつの言語表現なのだと考えてもいいかもしれない。可換図式のように A→B とあったら、文字で意味が補われていると考えるのは無理があって文字を含めて1つの図なんだろうなと思う。四角の中になにかの名前が書いてあったとする。四角とテキストをあわせて1つのノードもしくはオブジェクトとして提示されているのかもしれないし、四角はベン図的な領域でそのラベルとして名前があるのかもしれないし、ベン図的な領域である四角のなかの1つの要素として名前があるのかもしれない。これは箱とテキストの大小関係や位置関係やより外側の文脈によって判断が変わるだろうし曖昧なこともあるかもしれない。その判断は監修と言ってもいいし曖昧ながら文法のようなものといってもいいかもしれない。ここでは慣習と文法の間に断絶はなくなめらかにつながっていてその違いは決定的なものではないように思われる。

人物相関図、フローチャート、ITのシステム構成図、こういうのは人物やサーバーなどの機械類かとにかくなにかノード・オブジェクト的なものを矢印か線でつなぐように書かれる。何らかの領域やカテゴリーを表す多角形が加えられる場合もある。こういう矢印と線とノードと枠で構成されたグラフ構造とベン図を混ぜたような図、これは1つのカテゴリーにまとめられそうだけど、全体をちょうどよく含む名前が見当たらない。知らないだけかもしれないけども。

あえて探せばBlock Diagram(ブロック線図・ブロック図)という言葉がわりと広めに使われていてそれに少し近いかもしれない。ただ人物相関図はブロック図の一種であるという言い方はされないだろうし、ブロック図という言葉も領域によって使われ方が違っていてそれぞれの場所でDSL(領域固有言語)的なものを指す名としてブロック図という言葉が使われたりしているようだ。電気工学でブロック線図といえば回路図などのことだし、民事訴訟の内容を整理するためのブロックダイアグラムというものもあって、中身はまったく違うものだけれどもどちらも同じような名前で呼ばれている。個々の領域を越えてごく広い範囲でBlock Diagramという言葉が1つのカテゴリーとして使われているとまでは言えないようにみえる。

こうして見てみると個々の専門分野、その中で定義されそこだけで使われる図がたくさんあるのだろうと思えてくる。自分が民事訴訟のブロックダイアグラムについて知ったのもたまたま法曹関係の知人に図について話す機会があって教えてもらっただけでそうでなければきっと一生知らないままだったと思う。他にもそのように自分が知らない図の形式というものがたくさんあるのだと思う。

一方でたくさんの専門分野における固有の図の間におおまかな共通点もあって、矢印の使い方などは同じ作法に基づいているように見える。成立順序はその逆で、矢印や矩形の使い方のお作法というものが大まかに共有されていて、それを利用して個々の専門分野の領域固有の図が生み出されていったのだと思う。おおまかに矢印で何かを示すというのはジェスチャーを想起させるし、きちんとした形式がなくとも漠然と表現したいことがわかるというのも被形式的な自然言語に近いところがあるように感じられる。

一方で散布図のような値をプロットして作られる図はまたすこし性格が違うように思われる。デカルトがデカルト座標で幾何を代数にしたこと、そのちょうど逆をやっているようなものだけど。それらはまさにデータの機械的な可視化であって言語的というよりは数学的なものに思える。とはいえこのあたりは直感的にそのように感じられるというだけでもう少しきちんと考える必要がありそう。

地図や模式図についてもどう考えれば良いのかまだわからない。説明したい対象を写した写真に矢印とテキストで説明を書き込めば、模式図のようなものとして機能する場合もあると思う。写真でなく現実の対象を前にして指差しながらここは何であれは何でと説明するのに近いところもあってそれを紙に書き起こすと模式図のようなものになるかもしれない。

などととりとめもなく図について書いてしまったけど、具体的に新しくわかったことは特に見当たらない。ただ、図も言語のようなものだと考えてみると図についていろいろと考えていたことが少し整理できつつあるということなのかもしれない