かつては文学を嗜み絵を描いていたのに、働いているうちにパズドラしかできなくなり本を読むにしても自己啓発本になってしまった『花束』の麦君がなぜ生まれたのか、労働史と読書史のクロスで解説する本を読んだ(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』)。他の書評と併せて読むと、70年代の社会の雰囲気の記述等について怪しいところがあるようだが(自分自身はそれこそ著者と同年代であり、自分が生まれる前の話で経験していない社会の描写であるから、そのまま受け取るしかできなかったが)、自分が想定していなかった文脈も含まれる「知識」とそのものずばりの「情報」の違い、そして、そうした想定外の文脈に触れている余裕がない現代では「情報」の方が選好され、その結果、(仕事にそのまま直結しやすくハウツーが書き連ねられている「情報」そのものである)自己啓発本以外は読めなくなることは一定程度納得できるところがある気がする。タイトルにある「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問いへの答えを探しながら各年代の労働と読書の歴史を読み、最後になってようやく出てきたか・・・・と答えを急いだ感想を持ちながらこの本を読んでしまったところにまさしく「情報」を求めている自分を発見した(まあ、結論を先に述べてほしいと思うのは普通な気もしつつ・・・だが。)。
著者が問題提起するように、麦くんはなぜ働きながら絵を趣味で描けなかったんだろうか。やるからには0か100しかないという思い込みがあったからだろうか(本書にも言及があった。ただしそれはオタクの中で”にわか”と呼ばれることへの忌避感ではないと個人的には思う・・・オタク文化に限らず、プライドの高さとか思い込みとか、個人の特性ではないか。)。一度プロでやろうとしてできなかった挫折の記憶を絵を描くことで思い出すことになるから避けていたのだろうか。労働に全力で打ち込み、労働でやりがいを得ることでそのほかにリソースを割けなくなることの代償なんだろうか。自身が打ち込みたいと思うもの(興味関心)が絵から労働に代わったからだろうか(描けなかったのではなく、描かなかった)。趣味をやらずに労働に全力を注ぎやりがいを得ることをどうしようもないことと外野が決めつけるのは、なんだか頑張っている麦くんほか多くの社会人に失礼な気がするけれど、ただ、麦くんほか社会人のおかれている状況が「労働も頑張りたいけど労働以外にも何かしたい」と思っていてそれができていない場合であるなら、その解決策が「労働にそこまで頑張る必要はなく、労働を減らしなさい、半身でやりなさい」だと回答になっていない気もする。だって労働も本心として頑張りたいものなのであるから。
冷静に考えると、忙しく働いていても、今は、やろう・知ろうと思えばインターネットでなんでもアクセスできる、アマゾンで頼めば数日以内になんでも手に入るようになった。一方、そうしたなんでもすぐ手に入る環境は、何も手に入らないのと紙一重である。インターネットの大海原から欲しいものを引き出す方法、そして何より自分で引き出そうとする主体性がないと何も得られない状態になる。一度受動的になると、ネット広告のメカニズムにより一度クリックしたものと類似のものをずっと押し込まれ続けたり、各企業からのインプットに流され続けるだけのある種情報サービスの中毒状態に落とし込まれる。技術革新であまりにいろんなものへのアクセスが自由になりすぎたが故に、受け取るもの送るものを取捨選択できるようになったが故に、その人に主体性があるかどうかが人生の中で影響する範囲がプライベート含めより増えている気がする。心身の余裕と主体性の発揮可能性はもちろん連動するであろうが、多少疲れていてもいなくても「やりたい」と思いそれを少しでも実行に移せるかにかかっている。少しでも「やりたい」と思ったときに意思表示としてアクセスしておかないと、すぐに他者からの情報大量表示に自分の意思が押し流されていく。労働による心身疲労に加えて、社会自体が、何をするにせよより主体性や自主的な行動を求める社会になったからなのではないか。主体的な行動ができる人は自由にのびのびできていいが、主体的にはなかなか動けない人からすると空白の無を埋めるものとして受動的に受け取る大量の情報に身をゆだねて頭を使わない時間を過ごすこととなる。その自覚をもつところからが、スマホ見っぱなしや寝るだけの休日の無駄遣いからの脱却な気がする。何でも自分から主体的にアクセスして体を動かしてみよう。(自戒を込めて)。