Twitterはなんだかんだ言って「あってよかった」ものではあったが、イーロンが改悪したXは「あってはならない」ものになりつつある気がする。なぜか。それは個人の欲望をよりブーストさせる構造になっているからだ。つまりTwitterになくてXにあるものは、イーロン・マスクの「思想」であって、それこそがXというプラットフォームの本質を支えているものに思える。だからこそ彼は「X」と名付けたのではないか。 逆にいえばTwitterにあってXにないものといえば、インターネットの初期もしくは原初にあった平等の思想だろう。この差異はとても大きい。そして深い溝がある。
もちろんTwitterをそこまで理想化してはならないし、Twitterの時代から十分に人の欲望をブーストしていたことは事実だ。そもそも炎上という言葉と現象はTwitter時代に始まったものである。だがそこに具体的な金銭のやり取りは存在しなかった。要するに何らかの条件下での「課金」はなかった。となるとイーロン・マスクはもともとあったTwitterの承認と欲望のシステムをより加速させて、そこに金銭の報酬を得る仕組み変えていったといえる。彼はやはり天才的な一面がある。問題は金を生むシステムではない。金=課金によって承認と欲望が満たされるという仕組みにTwitterを組み替えたのだ。
自分にとって新しい音楽について知る一番のメディアはX(Twitter)でもあることに変わりはない。その部分では情報量が圧倒的だ。しかし問題は音楽について知る「だけ」ではなく、社会の負の側面も大量に摂取することになる点にある。その結果、精神が疲弊する。まさに本末転倒。だからこそいったんはX(Twitter)を生活の中心(本当にそうだった!情けない!)から降ろす必要がある。
自分もまたTwitterによって生まれてしまった承認欲望を自覚し距離を取るべきなのだ。加速する欲望は実は加速していない。停滞している。TwitterからXにかけてそういった状態の中生きてきたように思う。