裸のラリーズの『'77 LIVE』を久しぶりに聴くとその音の本質的意味での「幽玄さ」に心底から驚く。あの音の霧、ブレは録音の悪さという面もあるが、何より重要なのは、水谷孝本人の耳が、ラリーズの轟音として認めたという点にある。ここ最近は久保田麻琴によるミックスの『CITTA’’93』と『BAUS '93』ばかり聴いていたので、その点にまず驚くのだ。『'77 LIVE』の音は水谷がステージで感じていた音にもっとも近いのだろうから。
水谷孝が言葉/詩をノイズの轟音の中に溶かすことで発音された言葉と音響を、境界線上に「置く」ように、別の何かへと生成変化させようとしていた。だからこそライブ演奏がその創作活動の中心であり、創作そのものだったといえる。境界線とは常に揺らぐものだし、その揺らぎの生成変化が重要だったのだろうから。だからこそ残された3枚のCD /アルバムは貴重なのだ。逆にいえばチッタとバウスの久保田ミックスの2作は、そんな水谷の創作に別の光を当てる。故に重要なのだ、ともいえる。じじつ『CITTA’’93』と『BAUS '93』の2作はまさに「ラリーズの新譜」としての力を持っている傑作盤だ。
『'77 LIVE』の音自体は、そのオリジナルが入手困難になった以降も(特に00年代以降)完全ではないがらもブートのかたちで聴くことはできた(そもそもラリーズはブートが無法になっていたことが問題ではあったが)。そのときの感覚とマスタリングによって得られる感覚もさして変わらないので、オリジナルの音は何か本質的な幽玄性をまとっていたのだろう。