「すべての時代は続くものを夢見る」(7/10)

private_eyes
·

“西海岸のことを考えると、妙な気分になる”ーレッド・ツェッペリン

(『レス・ザン・ゼロ』(1985)、p.3)

Stairway to Heaven by Led Zeppelin (1971)

Ooh, it makes me wonder.

ああ、どうしてだろう

There's a feeling I get when I look to the west,

西の方を向くとある感情を覚える

(https://genius.com/Led-zeppelin-stairway-to-heaven-lyrics)

(https://www.flavorwire.com/266962/a-musical-overview-of-bret-easton-ellis-oeuvre)

Hotel California by Eagles (1976) 

So I called up the Captain

“Please bring me my wine”

He said, “We haven’t had that spirit here since 1969”

「ワインが欲しいんだ」

給仕長に僕が告げると

彼は言った「1969年から、その手のお酒は置いていないんです」

(1969年以降、スピリットは失われたのです)

・we haven’t had that spirit here since nineteen sixty-nine spiritは「お酒」(蒸留酒) の意味があるが、ここでは「スピリット」とのダブルミーニングとなっている。ワインは蒸留酒ではないから「スピリットを無くした」の意味がより強いと思われる。

1969年は、ウッドストックフェスティバルがあった年。サイケデリックカルチャーやベトナム戦争(反戦) など、様々な運動が最高潮に達したと同時に、衰退へ向かっていった年とも言える。

「ホテルカリフォルニア」という名のホテルはアメリカ国内にもいくつか存在する。一方で、曲に登場する「ホテルカリフォルニア」とはカリフォルニア州立精神病院(Camarillo State Mental Hospital) だとする説もある。1997年まで実在し、学校として現存している。薬物中毒者にとっては、ホテルのようだと言われていたという。

(https://lyriclist.mrshll129.com/eagles-hotel-california/)

(https://www.sankei.com/smp/world/news/131125/wor1311250033-s.html)

“西海岸のことを考えると、妙な気分になる”ーレッド・ツェッペリン

(『レス・ザン・ゼロ』(1985)、p.3)

Stairway to Heaven by Led Zeppelin (1971)

Ooh, it makes me wonder.

ああ、どうしてだろう

There's a feeling I get when I look to the west,

西の方を向くとある感情を覚える

(https://genius.com/Led-zeppelin-stairway-to-heaven-lyrics)

(https://www.flavorwire.com/266962/a-musical-overview-of-bret-easton-ellis-oeuvre)

Hotel California by Eagles (1976) 

So I called up the Captain

“Please bring me my wine”

He said, “We haven’t had that spirit here since 1969”

「ワインが欲しいんだ」

給仕長に僕が告げると

彼は言った「1969年から、その手のお酒は置いていないんです」

(1969年以降、スピリットは失われたのです)

・we haven’t had that spirit here since nineteen sixty-nine spiritは「お酒」(蒸留酒) の意味があるが、ここでは「スピリット」とのダブルミーニングとなっている。ワインは蒸留酒ではないから「スピリットを無くした」の意味がより強いと思われる。

1969年は、ウッドストックフェスティバルがあった年。サイケデリックカルチャーやベトナム戦争(反戦) など、様々な運動が最高潮に達したと同時に、衰退へ向かっていった年とも言える。

Dying to live by Edgar Winter (1971)

Why am I fighting to live if I’m just living to fight?

ただ戦うために生きているなら、どうして俺は生きるために戦っているんだろう

Why am I trying to see when there ain't nothing in sight?

何も見えないときどうして見ようとしているんだろう

Why am I trying to give when no one gives me a try?

俺にはチャンスなんて与えられなかったのに、どうして俺は与えようとしているんだろう

Why am I dying to live if I’m just living to die?

死ぬために生きているなら、俺はただ生きようとしているだけなのか

(https://screw-witted.hatenablog.com/entry/2020/04/15/212344)

Runnin' (Dying To Live) by 2Pac feat. The Notorious B.I.G. (2003)

*この曲は元々多くのラッパーが参加する1995年の"Runnin' (From tha Police)"という曲だったが、彼らの死後他のラッパーのバースが取り除かれ、2Pacのバースは別のものに変えられた。また元々はEasy Mo Beeによってプロデュースされていたが、新たなバージョンを作るにあたってEminemがプロデューサーとして参加し、Edgar Winterの"Dying To Live"という曲をサンプリングして用いた。

I mean, even though we was going through our drama

俺達はドラマを経験してきたが

I would never wish death on nobody

誰の死も望んでなかったんだ

(https://note.com/eijinnn/n/n291147e3911e)

麻楽密売で大金を得た2人の若者、ワイアット(キャプテン・アメリカーピーター・フォンダ)とビリー (デニス・ホッパー)はニューオリンズで盛大に開かれるマルディグラを目指し、カリフォルニアからアメリカ大陸を横断する気ままなツーリングに出発する。長髪に奇抜な服装、そしてドラッグを愛する2人を泊めてくれる宿も無く、野宿を続けながら彼らは1960年代アメリカの現実に直面する。

『ベルリン、天使の詩』や『ランド・オブ・プレンティ』などの作品で知られる映画監督ヴィム・ヴェンダース(1945年生)は、『イージー・ライダー』について「試写室から出てきたとき、私は、一種異様な感じで、まるで映画のなかにいるみたいだと思った。(中略)私は(試写室のある)コロムビアの建物の前に立って自分が映画に出ていた人間たちにそっくりなこと、自分もジミ・ヘンドリックスが大好きで、多くのカフェで客扱いしてもらえず、些細なことで留間所に放り込まれた経験がある、といったことを改めて確認した。そのうちこれらの人々も自分に向かって発するのかもしれない、と私は思った」と記している。

「アメリカを探し、どこにも見付けられなかった」

(『イージー・ライダーに見る若者の肖像』)

(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52805?page=5)



アメリカの「団塊の世代」は日本とはケタ違いのスケールだ。ベビーブームは同じ1946年に始まるが、アメリカでは64年まで続つづき、総勢7千万人を超える世界最大の団塊だ。このベビーブーマーはその成長につれ、この国の政治、経済、社会をまるでブルドーザーのように揺さぶってゆく。そしてその先頭集団が成年期にさしかかる60年代半ば頃から、大人たちの守る「古き良きアメリカ」に不信の眼を向け、反撥の姿勢を示し始める。(略)このカウンターカルチャーの鬱積は、次第に大きなマグマにふくれ上がる。そしてそのエネルギーが初めて社会事象として現れたのは映画市場だった。1967年、ハリウッドは眼を疑うような光景に仰天する。低予算のB級作品に過ぎないと見られた『俺たちに明日はない』と『卒業』の上映館に信じがたい数の若者たちが押しかけ、長蛇の列を作ったのである。この時期、ハリウッドは長い低迷の底に喘あえいでいた。戦勝気分の活況が去って50年代半ばを過ぎると観客数は激減する。大人たちは子育てに追われ、新たにテレビが家庭のリビングを占領した。ハリウッドは挽回に躍起となり、さまざまな試行錯誤に陥る。大型スクリーン、立体映画、巨額を投じた歴史もの超大作。しかしテレビを意識しすぎた狙いはほとんど外はずれ、採算割れが続くばかりだった。ところが、製作費わずか3百万ドルの『卒業』が史上空前の観客動員を記録し、何と1億4千万ドルの興収を上げたのである。この数字がハリウッドの方向性を一変させた。人口動態の変化の大きさを初めて思い知ったハリウッドは、この67年を境さかいに、新しい時代の主役であるベビーブーマーを観客層のメインターゲットに据える。そしてその疎外感やモラトリアム感覚を汲み取った作品を次々に送り出す。『イージー・ライダー』『明日に向かって撃て!』『いちご白書』、さらにアカデミー賞を獲とった『真夜中のカーボーイ』。この一連の作品群をタイム誌が「ニューシネマ」と名付けた。(略)

(『映画漫歩(第12回)ー映画とその時代 ②』)



そう、オールロケとは反抗である。

ニューシネマ以前のアメリカ映画は、スタジオ撮影が基本だった。

壮大なセットと綺麗な衣装に身を包んだゴージャスな俳優を美しい照明と映像で捉えて観客を夢見心地にしていたが、現実の世界に目を向ければ、そこにいるのは猜疑心と排他性にまみれて余所者に敵愾心を向けるレッドネックと、ヤク漬けの薄汚れたヒッピーと、何もしてないのに殺される黒人と、頭を撃たれて痙攣しながら血を噴き出して死んでいくベトコンの凄惨な姿。これが現実なのだ。

(https://hukadume7272.hatenablog.com/entry/2018/01/27/061317)

ヴェトナム戦争は、1960年頃から75年まで続いた、北ヴェトナム・南ヴェトナム解放民族戦線と、アメリカ・南ヴェトナム政府との戦争である。芸術史においては、カウンター・カルチャーの登場を促し、近代社会への内省を芸術表現にもたらしたという点で重要な出来事であった。ヴェトナム戦争の長期化とそれに伴うアメリカ社会の疲弊は、アメリカ西海岸の若者を中心にカウンター・カルチャーの機運を高め、その思想は美術、映画、大衆芸能などのさまざまな場面で反戦運動や平和主義というかたちで具現化された。近年も、中国系アメリカ人の美術家/建築家であるマヤ・リンが設計したワシントンDCの《ヴェトナム戦争戦没者慰霊碑(Vietnam Veterans Memorial)》は、花崗岩の巨大な壁に戦没兵士の名前を刻むというものであり、伝統的な慰霊碑とは大きく異なるデザインだったため、美術の枠を超えて大きな論議を呼んだ。

アメリカ社会では主流文化への反抗の象徴として利用されてきたヴェトナム戦争であるが、ヴェトナム国内やアメリカのヴェトナム系コミュニティでは、よりナショナリスティックな反応が見られた。ヴェトナム人の芸術家たちは反米色を鮮明に表わした社会主義リアリズムの作品を発表し、その傾向はヴェトナム戦争後に共産主義政権が樹立すると加速した。しかし、86年の「ドイ・モイ(刷新政策)」以降、より若い世代の芸術家によって、トラウマティックな記憶としての「ヴェトナム戦争」が現代美術の主要なテーマとして再考されるようになった。例えば、ディン・Q・リーは映像作品『The Farmers and the Helicopters』(2006)のなかで、戦争当事者のインタヴューと商業映像を混在させることで、西洋主導で語られてきたヴェトナム戦争の言説を転覆することを試みた。このように、ヴェトナム戦争はカウンター・カルチャーの時代から現代に至るまで、社会の矛盾を露呈させる舞台としてさまざまなかたちで表現/再生産されている。

(現代美術用語辞典ver.2.0)



1930年代に代表的な人工サイケデリックスであるLSDが合成され、近代都市社会でのサイケデリック文化の中心的な役割を担うようになる。1950年代には、サイケデリックスを使った精神疾患の理解と治療のための実験が盛んになった。

伝統的なシャーマニズムの文脈では、サイケデリックスを含む薬草はシャーマンが服用するもので、クライアントは必ずしも服用しない。しかし現代では、とくに精神的な問題を抱えたクライアントが服用することで、サイケデリック体験が問題解決に役立ち、心理療法(サイコセラピー)として役立つという可能性が明らかになってきている。(『死生観の人類学(2)』、『サイケデリック・サイエンス』(Discovery))

1960年代には、サイケデリックスは一般社会に広がり、カウンターカルチャーと結びつく。カウンターカルチャーは西洋近代文明に対する異議申し立ての運動だったといえるが、その中でLSDやマリファナなどのサイケデリックスが、「愛と平和 love and peace」の体験をもたらしてくれるものとして、東洋的な瞑想とともにその精神的なバックグラウンドになった。運動はしばしば反体制的ではあったが、その中心的な担い手は西洋(とくにアメリカ西海岸)の中産階級の「白人」の若者であった。

(『サイケデリックスと現代文化』、

http://www.isc.meiji.ac.jp/~hirukawa/text/modern_psyce_culture.htm)

ヴェトナム戦争は、1960年頃から75年まで続いた、北ヴェトナム・南ヴェトナム解放民族戦線と、アメリカ・南ヴェトナム政府との戦争である。芸術史においては、カウンター・カルチャーの登場を促し、近代社会への内省を芸術表現にもたらしたという点で重要な出来事であった。ヴェトナム戦争の長期化とそれに伴うアメリカ社会の疲弊は、アメリカ西海岸の若者を中心にカウンター・カルチャーの機運を高め、その思想は美術、映画、大衆芸能などのさまざまな場面で反戦運動や平和主義というかたちで具現化された。近年も、中国系アメリカ人の美術家/建築家であるマヤ・リンが設計したワシントンDCの《ヴェトナム戦争戦没者慰霊碑(Vietnam Veterans Memorial)》は、花崗岩の巨大な壁に戦没兵士の名前を刻むというものであり、伝統的な慰霊碑とは大きく異なるデザインだったため、美術の枠を超えて大きな論議を呼んだ。

アメリカ社会では主流文化への反抗の象徴として利用されてきたヴェトナム戦争であるが、ヴェトナム国内やアメリカのヴェトナム系コミュニティでは、よりナショナリスティックな反応が見られた。ヴェトナム人の芸術家たちは反米色を鮮明に表わした社会主義リアリズムの作品を発表し、その傾向はヴェトナム戦争後に共産主義政権が樹立すると加速した。しかし、86年の「ドイ・モイ(刷新政策)」以降、より若い世代の芸術家によって、トラウマティックな記憶としての「ヴェトナム戦争」が現代美術の主要なテーマとして再考されるようになった。例えば、ディン・Q・リーは映像作品『The Farmers and the Helicopters』(2006)のなかで、戦争当事者のインタヴューと商業映像を混在させることで、西洋主導で語られてきたヴェトナム戦争の言説を転覆することを試みた。このように、ヴェトナム戦争はカウンター・カルチャーの時代から現代に至るまで、社会の矛盾を露呈させる舞台としてさまざまなかたちで表現/再生産されている。

(現代美術用語辞典ver.2.0)

1930年代に代表的な人工サイケデリックスであるLSDが合成され、近代都市社会でのサイケデリック文化の中心的な役割を担うようになる。1950年代には、サイケデリックスを使った精神疾患の理解と治療のための実験が盛んになった。

伝統的なシャーマニズムの文脈では、サイケデリックスを含む薬草はシャーマンが服用するもので、クライアントは必ずしも服用しない。しかし現代では、とくに精神的な問題を抱えたクライアントが服用することで、サイケデリック体験が問題解決に役立ち、心理療法(サイコセラピー)として役立つという可能性が明らかになってきている。(『死生観の人類学(2)』、『サイケデリック・サイエンス』(Discovery))

1960年代には、サイケデリックスは一般社会に広がり、カウンターカルチャーと結びつく。カウンターカルチャーは西洋近代文明に対する異議申し立ての運動だったといえるが、その中でLSDやマリファナなどのサイケデリックスが、「愛と平和 love and peace」の体験をもたらしてくれるものとして、東洋的な瞑想とともにその精神的なバックグラウンドになった。運動はしばしば反体制的ではあったが、その中心的な担い手は西洋(とくにアメリカ西海岸)の中産階級の「白人」の若者であった。

(『サイケデリックスと現代文化』、

http://www.isc.meiji.ac.jp/~hirukawa/text/modern_psyce_culture.htm)

@private_eyes
インターネットの想い出に捧ぐ