「すべての時代は続くものを夢見る」(10/10)

private_eyes
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“Waiting on the beach for uncle Mao's yellow submarine to come and get me."

「マオおじさんの黄色い潜水艦が迎えに来るのをビーチで待っている。」

(One plus One, 1968, Godard)

(http://www.revistacinetica.com.br/oneplusone.htm)

(https://elshaw.tripod.com/jlg/One_Plus_One.htm)

(https://purple.fr/television/purple-paradiso-one-one-sympathy-for-the-devil-by-jean-luc-godard-1968-brief-extract/)



Yellow Submarine by The Beatles (1966)

As we live a life of ease

気楽な生活を送って

Everyone of us (Everyone of us) has all we need (Has all we need)

誰もがみんな満ち足りて

Sky of blue (Sky of blue) and sea of green (Sea of green)

青い空に緑の海

In our yellow (In our yellow) submarine (Submarine, ha-ha!)

僕らの黄色い潜水艦の中

We all live in a yellow submarine

僕らはみんな黄色い潜水艦の中で暮らしてる

Yellow submarine, yellow submarine

イエロー・サブマリン、イエロー・サブマリン

(https://lyriclist.mrshll129.com/beatles-yellow-submarine/)



1、ザ ローリング ストーンズ―転がる石

映像―ボリビアからロンドンへにげてきた女―ローリング・ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景に重なる朗読―アメリカ批判、トロツキスト。



代表的なメッセージ―「自己紹介しよう。俺は「金」と「欲望」のもうし子だ。長いあいだ、人間社会をうろついて、魂と信仰を盗み歩いてきた。イエスキリストが疑い苦しんだ時もそばにいた。会えてうれしいよ。オレの名前がわかるかい。お前を惑わすのも俺の仕事のひとつさ」ローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」



2、黒人小説を超えて―

映像―本を朗読し、銃をくばる黒人―壁にメッセージのペイント―シュミーズ一枚の白人女に銃をむけて、白人女への欲望をうたった詩にあわせて、女のからだを撫でまわす



代表的なメッセージ―「最大の敵は白人なのだ」

「白人は黒人音楽から盗んだ」

「話さないことが抵抗なのだ」



3、SDS―ストーンズ サイト アンド サウンド

ふたたびローリング・ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景に重なる朗読―ポルノ小説の朗読。



4、イヴのすべて―LOVE

緑の草原でマスコミのテレビインタヴューをうけるボヘミアン女性イヴ―マスコミは「LSD体験についてどう考えるか?」、「ヴェトナムについてどう考えるか?」、「知的革命家になるには知識人になろうとしないことか?」「オルガズムは性を感じる唯一の瞬間か?」「小説が滅びるときテクノロジー社会が訪れるか?」―などと質問を重ねる。



5、HI―FI フィクション―科学 ONE

ストーンズの演奏風景―車に「MAO―毛沢東―」という字の落書き。吠えるミック・ジャガー。



6、西洋の本心―LSD

本屋で本を朗読する紫のライダースの若い男―道に落書き。

「民族が地球上で自己生存のために闘うなら、つまり生か、死かの問題が国民に近づくならば、ヒューマニティとか、美とかの考えは無に帰してしまう。これらの観念は宙に浮いているのではなくて、人間の幻想から生じたものだ・・・・・・ヒューマニティも美も人間世界から消えるだろう」



7、1+1=2

壁にメッセージを描く女。コスイギンという主人公のポルノの朗読。重ねあわされるストーンズの映像。スローガンを描く男。「シネマルキシズム」



8、黒人の文章構成の内部で

黒人新聞のインタヴューをうける革命家の黒人の思想指導者風男。

共産主義とブラックパワー、マルクスについて。

政治権力の奪取を狙う黒人。

「黒人が世界中で解放されない限り、和解はない」



9、社会の変革―CIA

ふたたびストーンズの演奏風景。



10、石の下の浜辺

浜辺での映画の撮影風景。

ゴダールの心象風景の独白。

「わたしは政治的西部劇に飽きてきた・・・まだ1時間半しかたっていない。わたしは台本をクズかごに捨てた。無駄な戦いだった。わたしは5歳になる。赤軍や革命と同年齢だ。わたしは北京に電報をうった。海岸で毛―毛沢東―おじさんのイエロー・サブマリンを待つ。あたりをうろついている狂った連中は何ものだ。映画を撮っているのか。すべて時間の無駄だった。混沌から逃れなければ―」

(https://tomo0032.exblog.jp/6979338/)



シチュアシオニストによるゴダール批判

この章では、まず『メイド・イン・USA』が作られた1960年代半ばの文化的、政治的コンテクストを確認しておきたい。前述した通り、60年代はアメリカの大衆文化が西側諸国に浸透し、消費社会と呼ばれる、消費を中心に産業化された文化が登場した。そこでは、それまで高所得者の特権であった商品の文化的消費が中間層にまで広がり、街には広告やポスターをとおして商品や企業のイメージが溢れることになる。

消費社会に関して、『メイド・イン・USA』が作られた60年代半ばに、フラ ンスで最も影響力を持った理論家は、シチュアシオニスト (状況)を自称したギー・ドゥボールだろう。 彼の思想は 1967年に出版された『スペクタクルの社会』のなかに顕著に示されている。 ドゥボールの定義する「スペクタクルの社会」とは、日常のなかに過剰に存在する商品が見世物=スペクタクルとして機能し、私たちの生がその見世物=スペクタクルに支配されている社会のことである。 (略)

「スペクタクルの社会」とは、現代の「豊かな社会」と言われる高度資本主 義社会や、生産と政治が近代的に組織された社会主義国家において、「生」 のすべては「イメージ」に媒介された「スペクタクル」のなかに追いやられ、直接的な「生」の感覚が「表象」を通してしか感じられなくなった社会である。・・・そこでは「生」の全体性がばらばらな断片に解体され、さまざまなイメージによって人間の欲望や生が表象されるが、それらは決して「生の統一性」を回復するものではなく、「一般的な統一性」という擬似的な世界を提示するだけである。生の断片化、あるいは解体を、抽象的に掬い上げると同時にさらにいっそうそれを断片化するもの、それこそがドゥボールのいう「スペクタクル」なのである。(略) ドゥボールは「スペクタクル」という概念を否定的に使用しており、 その「スペクタクル」に支配され、社会から疎外されている「生き生きとした生」を取り戻すことが彼の主張の根幹を成している。そのため、そのような「スペクタクルの社会」を打破する「状況の構築」がシチュアシオニストの活動の中心となる。

では、彼らはどのようにしてその「状況の構築」を行うのだろうか。その活 動は多岐にわたるため、ここでは映画に限定して論じたい。ドゥボールは1952年の『サドのための絶叫』*にはじまり、生涯で6本の映画を監督している。そこで一貫して見られる彼の方法として転用 (détournement) と呼ばれる技法がある。転用とは物をその本来あった場所から逸脱させること、本来の方向を逸らすことであり、流用やハイジャックといった意味でも使用される。例えば『スペクタクルの社会』ではニュースやコマーシャルなどの既存の映像の引用によってのみ作られている。一見して分かるように、そこではエイゼンシュテイン流の弁証法のモンタージュが「ベタ」に一例えば、あるシーンでは、女性のヌードの映像と新車の展覧会の映像をつなぎ合わせ、性の商品化を表現されている一使用されており、大衆文化の諸イメージがそのコンテクストから独立して批判的に機能している。ドゥボールはこのような「転用」という方法を使用することによって、イメージのスペクタクル性を逆手に取り、通常のイデオロギー機能を転覆させ、「状況の構築」 の実践を目指した。

しかしながら、同時代にこのような方法を多用した映画作家はドゥボールだけではない。やはりゴダールも同じように、大衆文化を独自に横領=我有化し、その作品の中にそのイメージを使用している。

当然ここには、二人の作家の共通性が見出せるはずであるのだが、ドゥボールは「ゴダールの役割」 というエッセイの中で、ゴダールを次のように厳しく批判している。



しかし、単に価値を剥奪されただけの要素のコラージュは、ポップアートの 教義として確立されるずっと以前から、物体の場所をずらしてモダニズム的スノビズムに耽ることのなかに広大な適用分野を見出していたのである。 ・・・価値剥奪をこうしたやり方で受け入れることは今や、無限に交換可能な何 の特徴もない要素の組み合わせ的利用法(ママ)にまで及んでいる。ゴダールは、否定も肯定もなく価値もないこのような利用法の特別に退屈な例に過ぎないのである。



上記のような批判がこのエッセイで一貫して述べられているのだが、その内容を一言で要約してしまえば、ゴダールの方法が「生ぬるい」という一点に尽きている。 つまり、ゴダールは作品の中で、大衆文化をたびたび引用してはいるものの、それらが批判的に機能していないというわけである。このことは前述したように『スペクタクルの社会』でドゥボールが「ベタ」なイメージの「転用」を試みていたことを考えれば、たしかにその批判の妥当性はあると言えるかもしれない。

また、アラン・ウィリアムスは『気狂いピエロ』 (1965)のいくつかのショットの中にシチュアシオニスト的な引用の例を見出している。 例えば、ガソリンスタンドを経営する会社のロゴマークである「esso」の「8」という文字を強調させることによってナチス親衛隊やガスとナチスの隠喩によるファシズムを表現するショット、あるいは反復して登場する石油会社の「total」のロゴマークによって全体性 (totality) = ファシズムの隠喩を提示しているショットなどがその一例である。

その直前の生い茂る自然がうつる野外でのシーンと対照的に、このガレージで はドラム缶や機材が、青、黄色などに塗られていて、奇妙な浮遊感がある。 注目したいのは、これらの配色がそのガレージの中にある企業のポスターやロゴマークと類似していることだろう。例えば、いくつかのミディアムショットの後で、ポーラがガレージの中を歩きながらウィドマークと会話する場面を、 引きの長回しで捉えたショットでは「ミシュラン (MICHELIN)」のポスターと「シェル (Shell)」の計量器が映り込んでいるのだが、 その配色は機材、あるいは消火器と壁の色と同じ赤と黄色の配色が使われている。ここでの色彩はある種の「けばけばしさ」を持ちながらも、見るものに不快感を与えないような配色がなされている。おそらく、その要因は、それが消費者にとって最適化された色彩であるからだろう。



*(https://maplecat-eve.hatenablog.com/entry/20091017/p2)



おわりに 消費社会のカテゴリーの映画化

第一章で論じた通り、ドゥボールのゴダール批判、あるいはゴダールとドゥ ボールに共通性を見出す主張は、ゴダールの大衆文化の使用方法を単純化させてしまう。 ゴダールはドゥボールとは異なった方法で独自にその形式と機能を横領しており、本稿ではそのことを確認した。また、そこからわかることは、いかに「アトランティックシティ」という街が大衆文化に影響を受け、その隠蔽を行なっているかということだろう。広告や商品デザインの色彩に影響を受けたその街、コピーのコピーとも言えるオリジナルなシミュラークルの世界である。しかしそれだけでなく、シュミラークル性を隠蔽するかのような過剰な虚構性を持つイメージも存在する。 このことは、ゴダールが消費社会を批判的に描くというよりも、そのカテゴリーの映画化を目指していると言えるのではないだろうか。

ジル・ドゥルーズは、ゴダールの作品に諸カテゴリーの映画化という見出しで、『カラビニエ』(1963) について次のように論じている。

『カラビニエ』は、戦争を賛美するにせよ、弾劾するにせよ、もう一つの戦 争についての映画ではない。 相違点は、この映画が戦争のカテゴリーを映画化しているということである。そしてゴダールがいっているように海軍、陸軍、空軍というふうに厳密なものであり、占領、野戦というふうに「厳密な観念」であり、暴力、滑走、 情熱の欠如、愚弄、無秩序、驚異、空虚のような「厳密な感情」であり、物音や沈黙のように「厳密な現象」であったりしうる。

ここで論じられているカテゴリーとは、ある特定の環境における「言葉、 物、行為、人物などであり、それはイメージを物語的、表象的な機能から解放し、イメージそのものの反映をもたらす。ドゥルーズによれば、ゴダールの映画にとっての重要なことは、何が反映的なカテゴリーの機能をはたすかということを見極めることにある。

以上のようなドゥルーズの分析は当然、 『メイド・イン・USA』 にも当てはまるだろう。つまり、ゴダールが本作で行なっているのは、消費社会のカテゴリ 一の映画化であり、それは商品のような「厳密なもの」、あるいは隠蔽のような「厳密な観念」である。 ゴダールは、ドゥボールのように、映画を使用して観客を特定の思想(消費社会批判)に導くことよりも、カテゴリーの映画化を目指し、そこで反映するイメージを観客に提示することを重視していると言えるのではないだろうか。

(『ゴダールの消費社会ー「メイド・イン・USA」における大衆文化の使用方法について』)



ジル・ドゥルーズはゴダールの作品に「一般化されたセリー主義」を見ているが、それは『勝手に逃げろ/人生』には文字通り当てはまるのだ。事実、そこには番号を付された4つのセリーがある。〈1.想像的なもの〉ドニーズ・ランボーは、都市を逃れ、田舎で静かな生活を送ることを夢見ている。〈2.恐怖〉ポール・ゴダールは,ドニーズを失うことを、しかしまた都市を離れることを恐れている。〈3.商売〉イザベル・リヴィエールは、田舎から都市に出てきて、売春に従事する。そして、これらのセリーが絡み合って作り出すのが他ならぬ〈4.音楽〉であり、その帰結は、ドニーズと別れたポールが、イザベルの仲間の売春婦の 乗った車にはねられて(おそらくは)死に、彼の妻子がその場から平然と立ち去って行くというものなのだ。救いはない。

(https://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic013/godard/godard_j.html)



映画論、映像論、映像文化論、映像メディア論をあつかう書物は決まって、われわれがいかに無数のイメージに囲まれて生活しているか意識するよううながすことから始まる。しかし、現在われわれを取り巻くイメージは、われわれにおのれを見せようとしているのだろうか。むしろ現代のイメージは、それを見ずに済ませてもらうために躍起になっていないだろうか。われわれはイメージを見るかわりに、「消費」を、「コミュニケーション」を、「インタラクション」をひっきりなしに要求されている。

(http://www.kaminotane.com/2018/07/12/3160/)

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