今朝は病院をハシゴした。忙しくない時期は自分のメンテナンスにあてている。高校入試の後期選抜試験が過ぎ、確定申告を終えて、あらゆるモチベーションをロストしていたところで、ふとカレンダーを見るとむかし付き合っていた人の誕生日が近いことに気がついた。その後、思わずフロイトの夢判断を引きたくなるような過剰にロマンティックで、性的な情動をふんだんに含んだような夢を見てしまい苦笑しながら目覚めたのだが、そこで、ソダーバーグの『セックスと嘘とビデオテープ』を思い出したのだった。なぜなのかはわからない。書きながら明らかになるかもしれないし、ならないかもしれない。どんなに笑いながら目覚める経験がレアなものだとしても、いずれにせよ夢の話だけでこの記事を最後までもたせるのは難しいだろう。いま古びた病院の待合室でスマホの画面を覗きながらこれを書いている。シネフィルから酷評されがちなスティーヴン・ソダーバーグが私は昔から好きである。『セックスと嘘とビデオテープ』は彼のデビュー作にあたる作品だ。
ソダーバーグはOCEANSシリーズのヒットに明らかなように「ジャンルもの」を撮らせるとその良さが光る監督で、一応映画史的なものが教養としてあり、彼自身に私小説家のような資質があるため、「ジャンルもの」を撮らせると必ずエンターテイメントの枠から少しはみ出た怪作をものにする。
「言いたいこと」のある作家というのは大抵「作家性の強い」作家だと言われ、こなれてくると初期の瑞々しさは失われる。結果、キャリアも長続きしないことが多い。ソダーバーグ自身、非常に「言いたいこと」のある作家で、『セックスと嘘~』はデビュー作にふさわしく、彼の「言いたいこと」が精一杯詰め込まれた作品だ。ソダーバーグは後にウォーホールによって破壊されるエドワード・ホッパーのナイービティーを呼び起こす。ナイービティーの正体は私たちの寂しさである。
あらすじはざっとこんな感じ。以下Filmarksのneroliさんの要約から引用、ネタバレあり。
主人公「アン」は世界に溜まっていくゴミのことを気にする「強迫観念」を持ち、『強迫性障害』にて精神科に通院している。家の掃除を念入りにしている様子からも伺える。同時に、夫婦生活に喜びを見出せない「冷感症」でもある。「アン」の夫の友人「グラハム」は、知り合った女性が語るセックス体験をビデオテープに撮り、それを観ることで、性的な興奮を得るフェティシズム的な性倒錯者。『性倒錯』とは、常識的な性道徳や社会通念から逸脱した性的嗜好を指す。主人公「アン」は、精神科医の診察を受けても何も変わらなかったが、「グラハム」との出会いで、自己発見につながる。最後、夫と離婚した「アン」は、「グラハム」と恋仲になったようなシーンで終わるが…。 「アン」が自分を変えてくれた「グラハム」に惹かれるのは分かる。しかし、社会の常識から逸脱した性的嗜好を持つ「グラハム」は、「アン」と付き合って満足するのか?最後のシーンに疑問を持ちつつも、まぁハッピーエンド?ということで。
私の記憶が正しければ、グレアムとアンは最後「雨が降ってきたね...」と言って空を見つめていた。空虚だが、温かいシーンだ。エドワード・ホッパーから『アメリカン・ビューティー』まで続くアメリカにしかない光景、特にドナルド・トランプ以降完全に失われることになる、一種の空虚で奇妙な美しさを私たちはそこに発見する。
リースマンなどを使ってある程度は説明できるかもしれない空虚さは私見では主にコミュニケーション不全に由来しており、それはこの作品のテーマに直結している。そこに描かれているのは自己と他者との相互作用に他ならないからだ。
不能のグレアムにとって、モニターに映るさまざまな女性は彼の決して触れられない他者である。触れられない他者の自発的な告白にモニター越しにアクセスできる、その受動的、自己防御的な「覗き見る」行為が彼に性的な興奮をもたらすのである。ここで思い出すのが、『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-』という著作。おおむね以下のような内容。
ラカンの精神分析理論を「神経症と精神病の鑑別診断」というテーマで読み解いた本。50年代にはエディプスor notだった二元論的な理論が、ラカン自身の柔軟性のおかげで70年代には脱構築された。タイトルにあるように「人はみな妄想する」広義の精神病者であり、みな症状を持っている。
ラカンによれば「主体」とは「構造」によって産出される存在であると同時に「構造の外部」を絶えず希求する存在でもあるということです。
話を戻そう。『セックスと嘘とビデオテープ』において、グラハムはモニターに映る映像によって自らの性意識そのものを対象化し、モニターによって現実とは隔てられることでようやく「情事」のリアリティーに触れて、欲情することができるようになるのである。ここで行われているのは紛れもない彼自身の自意識の構造化であり、かつその構造の外部へと逃れていくような運動である。
「サントーム」は「転移」する。アンによって彼自身がビデオに撮られたとき、そこで構造化された彼の自意識はモニターという保護膜の外側にさらされ、二重化された現実の前に崩れ去る。これがグラハムに起こったことの簡単なあらましである。
インターネットが一般化して、私たちはさまざまな他者の姿をモニター越しに見る機会が増えた。皮肉なことに、それは他者に対する警戒心と無関心を同時に強めたようだ。インタラクティブな機能がありながら、人は人ともうあまり関わろうとしなくなった。ここにあるのはその枝をあらゆる方向に伸ばしていくリゾームの切れ端であり、それが言葉であれ、図像であれビデオによって撮られる被写体のようには人々は認識されない。しかしここでも、見るー見られるという古典的な図式だけはあり、それが私たちを一つの関係性の中に閉じ込めるのである。
もっとも一般的には、自我は主体とみなされ、自己は客体とみなされる.これは、見る自分と見られる自分、反省する自分と反省される対象となっている自分を区別するものである.経験される対象となっている自己のことを現象的自己という.この意味で経験する主体としてのは超越的自我といわれる.自己については感じ、知ることができるが、自我については知ることができないことを意味している.
インターネットにおいて、とりわけSNSのような情報のオーバーフローの只中においては、人の書いた記事を読む自分とそれへのリアクションとして記事を書く自分、インプットされた情報とアウトプットした情報はそれぞれ主体としての「自我」と客体としての「自己」に相当し、その入れ替わりは交互というよりほぼ同時に起こっている。このようにして巨大なリゾームは丸ごとパラノイアの生成装置としても機能しうる。
リゾーム的な接続は、どこかで切断され、有限化されなければ、私たちは、かえって巨大なパラノイアのなかに閉じ込められる。あらゆる事物が関係しているという妄想である。(千葉雅也『動きすぎてはいけない』,p64)
パラノイア化に関わるのは、構造化の動きである。情報の繋ぎ目に、私とあなたとの間に、見るものと見られるものとがその関係を定義し、リンクさせることで、逃れられない檻としての強固な構造が出現する。
自ら作り上げた堅牢な檻に閉じ込められた人間が唯一持ちうるのはリアリティーというものに対する冷めたメタ認識だけである。こうしてパラノイアはニヒリズムに転化する。この現実が胡蝶の夢ならば、その夢は性的なものでもあるだろう。なぜなら人と人の間には常にコミュニケーションがあり、それは得てしてうまくいかないものだからだ。うまくいかないコミュニケーションこそが、セクシャルなイメージを強く喚起するのである。
見知らぬ他人に一途の望みを託して、私たちは今日もネットの海を遊泳する。人はみな妄想する。この記事を書き始めたのは、ちょうど昨日の今頃だった。明日はあの人の誕生日だ。