マイノリティーの社会へのインクルージョン、ちゃんと受け入れる体制を整えることは大事で、そのためにアライを増やしたいという理屈なのだろうけど、SNS上で見かけるアライ、大概当事者に遠慮がなく、悪く言えば少し「近すぎる」感じがする。
マイノリティーの権利回復運動については、制度面での是正は大事。法律や条例を整備したり、企業や公共施設に対する働きかけたり、個別の対策を社会全体で議論する必要はあると思う。そのためにマジョリティーに対する注意喚起が必要だという理屈はわかる。法整備は、最終的には、議会内での審議によるのだし、当事者の力だけではそこまで辿り着けないから。
アライは協力者である前に理解者である。それでは、そもそも他人を「理解」するとはどういうことか。性的、民族的マイノリティーとしての属性について知ることで、目の前の他者を「理解」したと言えるのだろうか。
その人のパーソナリティーが、マイノリティーとしての属性を前に立ち消えてしまうという悲しいケースをよく見かける。当事者の訴えかけにもその人の人となりが見えないことがある。マイノリティーの権利回復運動で問われているのはアイデンティティであり、そこでの訴えかけとはつまり「私のことをわかって下さい」という意味なのに、主張の内実に反して、それについて語られることが少ない。ただしだからと言って無理にカムアウトを強いるのはもちろんよくない。誰にだって人に話したいことと隠しておきたいことはある。それは前提としても、「私のことをわかって下さい」と人に言うとき、必要なだけの自己開示はやはり免れないものではあるだろう。
当事者でもないのに声高に他者のアイデンティティについて主張することについて、少しは恥じらいを持つべきだろう。他者との距離感がおかしくなってきたように感じたら、頭を冷やすべきだろう。
他者との距離のとり方に「正解」はない。しかし、人をよく見ること、誰が何を言っているいるかを注意深く聞き分けることは、他者のパーソナリティーについて具体的に知るための必須条件とは言える。
政治的ポリシーとしての「アライ」を表明する前に、一人一人の言うことに耳をそばだてること。この点に限っていえば、マイノリティーとマジョリティーの付き合い方に大差はない。
当たり前のようでこの社会で実現しない「人は一人一人違う」という認識を持つことから始めてみないか、という提案です。