さよならララの最終回、「自己犠牲なんてクソ喰らえ」という最終回でわたしはめちゃくちゃジーンとしている、めちゃくちゃ最高、ララもまりちゃんもめちゃくちゃかっこよかった、ありがとう;;ララ自身から生まれてしまったナイフ、それにララがのみこまれてしまって、そのナイフの中の鋭利な歯(刃)がララの尾ひれを切りつける、ララが少し動くだけでその歯はたやすくララを傷つける。きっと、処女喪失、というあまりにも手垢のついた表象だけど、これまでと違うなと思うところは、このときララが人間の脚を手に入れるために薬の力に頼っていない、というところ、紛れもなくララ自身の意思の力だけで、ララは人間の脚を手に入れる、というところ。
主体性がそこにある。
わたしはいま、わたしの話をしているんです。(『虎に翼』)
ララはこれまで「本当の愛」を探していた、それがララの一族を、人魚たちを救うことになるから、それがプリンセスの役目であると言われていたから。このララに課された「本当の愛をみつけること」は呪縛だと思った。家父長制の象徴のような使命だと思った。なんで本当の愛をみつけることを、親やまわりの家族から強制されなければならないんだよ。本当の愛をみつける、それは、本当にララだけに課されたものなのか。だから、ララが自らの生み出したナイフの刃(憎しみ)に尾ひれを傷つけられながらも、「本当の愛とかどうでもいい、あなた(まりちゃん)の居る世界にわたしも居たい!」と大きな声をあげて求めたことが、わたしはとても嬉しいし、そうやってララがまりちゃんの隣にいることを求めたことが、光になってララの家族の命をつないだ、ということ、ララとまりちゃんのあいだにあるものが、普遍的な友情である、ということ、それがめちゃくちゃ良いなって思っている。
誰かを救うために、自分が犠牲になることなんてない、ということ、自分が求めるものを、これが欲しいって、求めることは悪いことなんかじゃないということ。
リサ様とコウタのあいだにも、魔女様(グレイス様)とまりちゃん(とララ)のあいだにも、きっともう本当の愛はあった、わたしはそう思う。ララと違ったのはきっと、その対象をまもるために自分の身を捧げた、捧げてしまった、ということ。ララも一度目に陸に上がったとき、自分から生み出されたナイフから王子をまもり泡となった。鏡に残された魔女様のララとまりちゃんへの最後のメッセージが、掟に囚われるな、で、そこもすごくいい。魔女さまはもう、知っていた、魔女さま自身がむかし求めた光がララとまりちゃんのあいだにある、ということを。だから、身を呈してまりちゃんを護った。(いまでも魔女さまにも生きていてほしかったなってわたしは思っている)
ララは自分の意思で人間の脚を手に入れる、でも手に入れた脚は傷だらけだ。それでもララはその痛みを引き受ける、痛みとともに生きていく。それは、ララがまりちゃんの隣にいるために、ララがほしいもののために、ララが自分で引き受けると決めた傷だったからだ。自己犠牲とは反対側にある痛みだ。電車に乗り込むララに光がさして、脚の痛みを引き受けながら笑うララの顔が、すごく素敵だった。あんたがおらんくなるのさみしい、と言って泣くまりちゃんの背中が愛おしかった。
さよならララ、というタイトルの、すこしズラした回収の仕方もすごく好き、回を重ねるごとに「ララとさよならしたくない;;」という気持ちが募っていたけど、このラストのララとまりちゃんの「さよなら」がもう二度と会えない、というものじゃなくて、また会いに行ける、という「さよなら」で、これまでの「さよならしたくない」というわたしの気持ちまでも掬いとってくれる終わり方で、ああ〜、めちゃくちゃ良かったです、ありがとう、さよらならララ;;
またね;;