「こういう価値観はもう過去のものなんでしょうか」
FCUW6の「Name is man~君の味方~」という曲のあとのMCで晴一さんが言っていた。「そうなんでしょうか、そうなのかもしれない」とこの言葉を聞いたときに思った。同時に、でも、とも思った。
でも、わたしは今もこの曲が好きです、と思った。「俺は男だから」という言葉が6回出てきて、晴一さんがMCで触れていたのもそこで、そういう流れでジェンダーふたつだけじゃないし、と晴一さんが言ったときの客席の反応も「ああ~」(そうだよね)みたいな感じで、映像をみていて、そういう雰囲気が良いなあとも思うけれど、でも、この曲ってそういうことなのかな、というのが晴一さんの言葉を聞いてからずっとわたしの中にある。晴一さんの歌詞だから、昭仁さんが歌っているから、そういう風にわたしが思っているだけなのかもしれないけれど、この曲の主人公の言う「俺は男だから」という言葉は、恋人のことをねじ伏せようとするものではなくて、そういう威圧的な、シャットアウトするための言葉ではなくて、どこかはにかんでいる雰囲気がある、はにかんで、すこしうつむき加減で、となりにいる恋人にも届かないくらい小さい声で、言っているきがする。「え?何かいった?」と聞かれたら「なんでもない」と返してしまいそうな気がする、少しだけ耳を赤くして。だからわたしはこの曲に出てくる「俺は男だから」という言葉を、詰る気持ちにはどうしてもなれないです。
君の寝息 乱さぬように ひとりベットをぬけだして 君に宛てた 手紙書こうかと 5分悩んですぐ寝た
ただ君が壊れるほど ヘコんだ時には この胸寄り添っておいでよ 閉じたまぶたにささやく
この曲を聞くといつも、このひとは恋人のことが大好きなんだなあ、と思ってしまう。「俺は男だから」という言葉は強い言葉だ、この言葉だけを切り取って、今に照らし合わせるとやっぱり「えっ」ってなる人が多いんだろうなあと思う。それでもこの曲からにじみ出ているのは、このひとが、恋人のことを好きで、好きで、大好きで、大事に、大切にしたい、というそういう気持ちのようにわたしには思えて、これが愛じゃなければなんなんだ。「俺は男だから」だから「いつまでも君を守る」んじゃなくて、「悲しみのすべて引き受ける」んじゃなくて、「きみ」のことが好きで好きで仕方なくて大事にしたいと思っているからそうするのだ。でも照れくさいから「俺は男だから」という言葉で、隠してしまう、覆ってしまう。きっと恋人にはそういうところがダダ漏れで伝わっていて、だから「君はいつも感情全部をありのままに口にする」んだろうし「そして俺にもそれを求めてどれだけ好きかって聞く」んだろう。言葉もことばづかいも大切なことだ、でもそこばかりを、そこだけを見るんじゃなくて、こだわるんじゃなくて、言葉以外のところ、(たぶんわざと)言葉にされていないところ、そういうところを見失わないようにしたい、取りこぼさないように、見誤らないようにしたい。「はて?」はそういうための言葉でもあると思う。ずっと、ぐるぐると考えていて、自分が参加したライブのあとに手紙を書いたけれど、そのときにはまだ、なにも自分の中でまとまっていなくて、ただ「私はいまもこの曲が好きです」みたいなことしか書けなくてそれが悔しかった。映像として観られるようになって、何回も繰り返して観るうちにこういうふうに考えられるようになって、自分のメモだけじゃなくてインターネットのどこかに残しておきたいな、と思ったからいまこれを書いています。
もうひとつずっと頭のなかをぐるぐるとしている言葉があって、それは「ヴィヴァーチェ」の「誰かと寄り添っているほうが安心なんだろう なら誰かと足を引っ張り合っても泣き言を言うな」という歌詞です。初めて聞いたのが2年前の横浜スタジアムで、この歌詞が耳に飛び込んできたとき、バチン!と頬を打たれたような感じがして、でも昭仁さんは「固く握り締めた拳を振り下ろさずにいれますか?そしてそれが生きることだと胸を張って言えますか?」(n.t.)と書けてしまうひとだった、とも思ったのだった。2年前にヴィヴァーチェを聞いてから、不意にこの歌詞が頭の中に浮かんでくる時があって、浮かんでくるたびに、「ああ来たな」と思う。ずっと、この歌詞の意味するところがつかめないでいる。寄り添う、ってなんなんだろう、と思ってしまう。寄り添う、と言う言葉はわたしは優しい言葉だと思っていた。でもこの歌詞ではあまりポジティブな文脈では語られていなくて、わからない、と思う。わかりたい。わたしの寄り添う、と昭仁さんの言う、この歌詞のなかの、寄り添う、は明らかに違っている。違いを埋めたいんじゃなくて、ただ、どういうことなのか、知りたい。はじめて聞いたとき、わからないけどここがきっとこの曲の核心なのではないかな、と思った。わからない、だから知りたくて、わかりたくて、この歌詞がふっと浮かんでくるたびに、立ち止まって考えている。本を読んでいるときもうっすらこの歌詞のことが頭のどこかにあって、この歌詞をわかるためのなにかを、いまも探している。「日本の思想」という本を読んだとき、「である」ことと「する」こと、という言葉に出会って、「欠片がつかめたかもしれない」と思えた。
自由は置物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる。いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過ごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上るよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持ち主などにとっては、はなはだもって厄介な代物だといえましょう。
(日本の思想:丸山眞男)
なんというかここだ、と思った。まだちゃんと言葉にできない、感覚だけだけれど、ここになにか蠢いている、隠れている、そんな気がして、でもピタッとあてはまる鋳型が、言葉が見つけられずにいる、だからこれからも探し続けていきたい。
本を読むたのしさを教えてくれたのは、本を読むようになったきっかけは、みたいな問いかけを不定期にみかける。
結局わたしの場合は、わたしがこうしたい、と思ってすることは、ポルノグラフィティにつながっているんだろうなあと思う。晴一さんが読んでいる、といっていたから「重力ピエロ」を手に取った。昭仁さんが聞いている、と言っていたから「ノラ・ジョーンズ」という人を知ったし、歌詞に出てきたから「ジャニス・ジョプリン」というひとのことを知った。本を読むのもきっと、知りたいだけなんだろう、晴一さんと昭仁さんの歌詞の意味を。知りたい、と思う、知って、分かって、このひとたちの、大好きなひとたちのことばを、自分のものにしたい、そういうたぶん欲張りで、エゴイスティックな「好き」を満たすための行為だ。思いもしないところで、ふたりの歌詞について「こういうことなのかも」と思えたら嬉しい、何回も聞いた歌詞についても、そういうふうに思えたら、その歌詞に隠れていたきらめきを見つけられたみたいで嬉しい、わたしは、だから本を読むことがやめられないのだ、わたしのなかにことばがこもりつづけている、晴一さんのことばも、昭仁さんのことばも、それから、これまで読んだ本で出会ったことばも、ぐるぐるとこもりつづけて、まちかまえている。