少し前に、Xなどの短文SNSに次のような投稿をした。
有名な『草枕』の一節になぞらえて書いたが、最近思ったことをまとめると、そういう短い言葉にできそうだと思った。
※後半の節について、本稿のタイトルでは少し言葉を変えているが、微差に過ぎない。
解説は蛇足かもしれないとも思ったが、特に後半については誤解を招きそうなので、意図するところをまとめて記しておきたい。
解説
この短い2節の文は、自身の行動原理をどこに求めるか、という主題に対して、悲観的な結論を述べている。
…が、私自身はそんなに悲観も絶望もしてないので、安心してほしい(?)。
以下、それぞれについての解説。
「情に過ぎれば破滅する」
感情や情動、情欲だけで行動するのは良くないというシンプルな話。
一時の情動や情欲に身を任せて行動すると、身の破滅を招くことになりかねない
上のような瞬間沸騰的な感情でなくとも、例えば「悲しくて一歩も動けない」とか「面倒臭くて何もやる気が起きない」とかも、そればかりになると緩やかに破滅の方向へ進むことになると思う
問題にならない種類の感情もあるかもしれないが、いずれにせよコントロールは大事、という話
こちらの考え方は、多くの人にすんなりと受け入れられるのではないか。
「理を貫けば意義を失う」
じゃあ、理屈だけで行動するかというと、それも行き過ぎるとナンセンスだよね、という話。
「〜のために…をやる」というものは、突き詰めて考えれば全てが無意味だということ。
太陽や宇宙の寿命が尽きた後で残るものは何も無いので。
この考え方は、人によっては受け入れがたいものかもしれない。
聞くところによれば、ニーチェの「虚無主義」はこういう考えに通じるところがあると思っている。
では、どうするか。
我々の生き方は詰んでいるのだろうか?
その問いには、私は「NO」と答えたい。
「やりたい」に従って、節度を持って生きる
唯一、理屈の上で文句のつけようがないと思うのは、自身の内的な動機、即ち「やりたい」という気持ちに従って行動する場合だ。
ただし、それは感情に任せての行動になる。
「やりたい」に従いつつ、社会と折り合いをつけて、破綻しないように生きるためには、節度が必要になることもあるだろうと思う。
その「やりたい」が公共の利益に合致していれば問題はないかもしれない。
逆の場合は、我慢をするか、社会に排斥されないための何らかの工夫が必要だと思われる。
逆に言えば、それさえ満たしておけば、社会と上手く折り合いをつけながら満足する生を生きることができるのではないかと思うのだ。
もし、「他者のために生きる」という人が目の前に現れたら、私はそこに欺瞞を感じると思う。
まとめ
情に過ぎれば破滅する。
理を貫けば意義を失う。
できるのは、生きたいように生きるだけ。