ハイスクールモラトリアム

ptymiruka
·

高校三年生の冬の夜、受験のために燃え滓になろうとしていた私は、外に出るために洋服箪笥を開けた。ハンガーから外したトレンチコートに袖を通す。手袋もはめておく。

『何でそんなめんどいことするの、窓越しで良くない?』

頭の中で亜美の声が聴こえた。うん、そうだね。

 窓を開け、バルコニーを歩く。冷気に当てられ、無意識に深呼吸をする。白い息が空に漏れていくと、一緒になって残りの炭も飛んでいった。燃え尽きた私は、手すりに体を預けた。

夜の空は、寂しいのかもしれない。仲間を欲しがってるかもしれない。ギラギラと燃えている恒星は、きっと光に照らされたいから集めてるんだ。だから、地上の家々も、店も、きっと空は欲しがっている。ずっと見つめているうちにどんどん近づいてきて、光らない私達ごと全部埋め隠していく、そんな錯覚に陥ってしまう。

 そんな夜空の自慢の光、月は、あまりにも強い光だから勿体ぶって一ヶ月に一日だけしか本当の姿を見せてくれないけど、今日は正に「その日」で、澄んだ空気の中、目が眩むほどに綺麗な月が光の線を四方八方に長く引き、いつものように会いに来た私を「どうだ、今月の輝きは一段と凄いだろう」と誇らしげに見下ろしているのだった。確かに、雲も空気も、今夜の月を遮るものは何もなくて、本当に綺麗だ。

でも、私にはそんな月の様子がなんだか哀れに見えてしまう。

私は月の限界を知った。地平線の向こう側まで広がった黒色には、光の線もふんわりと浮くことはしようとも、貫けない。ここまでなんだ。

「眩しいよ、お月さま」

お世辞と白い溜息が、私の体を力無く抜け出ていく。これで……月は満足なのかな。

 答えがわからないまま、満月の日は終わった。

 

「ねえー、ねえ、最近ね、友達全然遊んでくれないんだよう、泣けるう」

「受験だからね」

一月五日の夕方のこと、私は予備校の帰りに家で亜美と話していた。

「私そういうのわかんないよー」

「そう」

亜美のマンションは私の家から出て二つ先の曲がり角を左に曲がった所にある。小さい頃から町の集まりで会うことも多かったけど、中学生になるまでは全然話さなかった。

だから、三年生の時にクラスの中では誰とも喋れない余りものだった私と友達になってくれた理由が、最初はわからなかった。亜美は私なんていらないくらいに沢山の人に囲まれているように見えていた。

初夏の日、好きな作家の絵を贋作していたら亜美がやって来て、私は手を止め、何気なく進路のことを訊いてみた。

私は驚いた。亜美は何処で知ったのか、私の志望校を当ててみせ、自分も同じ高校に行くつもりだから仲良くなりたいと思って近づいてきたと言ったのだ。

それから、距離がぐっと縮まった。全日制と定時制で違うけど、亜美はアルバイトに行くついでに一緒に学校まで行ってくれている。私達は仲の良い親友だった。

一年前、風に乗って運ばれた桂花の匂いが顔を綻ばせるあの季節が、それまでの私達の全てを覆したあの季節は、亜美を見る私の瞳を、未だに揺らし続けている。

『香苗、私』

 

「香苗」

「何」

「アイシャドー変えてみたけど」

「知ってるよ」

「言えばいいのに」

「ごめん」

「どう? 似合ってる?」

「前のよりも良い」

亜美は頷いた。

「香苗もそう思うよね」

亜美は色白だから、メイクをして服を着ると球体関節人形みたいに綺麗になる。

「香苗もすればいいのに」

「ううん、いいの」

「もう、どうして嫌がるの。私にやってもらった時は楽しそうだったじゃん」

亜美は顔を近づけ、私の瞼をなぞった。香水が相変わらずきつい。

「香苗も、女の子でしょ」

そのままキスをした。

 

『好きなの』

『香苗が好き』

『お願い、私と付き合ってほしい』

『女の子じゃ嫌かな』

『私の絵を描いてほしい』

『ずっと私の側にいてほしい』

『もう、裏切られるのはやだ!』

あまりにも寂しそうだった。真っ赤な顔で、とめどなく涙が溢れていて、何も言えずにいた私は、目眩がするほどの強い力で正面から抱きしめられた。可哀想、と思った。

 亜美は一年前の冬に彼氏に捨てられたらしかった。三月くらいまで落ち込んでいて、ようやく元の明るいけどちょっと毒っぽい感じの、いつもの亜美に戻ったと思っていた矢先のことだった。

『私でいいなら、付き合うよ』

腕が緩んだ、と思ったらまた強く抱きしめられた。私は呻いた。

『大好き』

嗚咽混じりの小さな声が、胸の中に響いた。女の子を好きになったことは一度も無かったけど、親友の辛さが少しでも和らぐならそれで良かった。

 

「手、洗お」

「うん」

亜美はドアを開けて、歩いていった。私はブラジャーのフックを留めて、次に服を着ようとしたけど、クシャミが出そうで少し手が止まった。服を脱いだら何処だって寒い。暖房が効いていても、寒い。手でクシャミを抑えた。寒い、寒い、寒い、空洞……虚しい。

手を洗いに行く途中で、化粧品入れを持った亜美とすれ違った。きっと、私が階段を上がって部屋に行く頃には、荷物をまとめているはず。

私は鏡に映る自分のくたびれた顔を見て、溜息をつき、洗面器に体重をかけながら下を向いた。だって、と、誰かに言い訳をする。亜美はすぐに泣く。自分が好きかどうか、逐一確認してくる。私のことを強く抱きしめてくる。もう、うんざりだよ。亜美といると疲……不満はそこで打ち止めにした。大事な友達のために付き合うって言った責任がある、だからそんなこと思っちゃダメ。

そんなこと、思っちゃダメ。

「ダメだって、わかってるのに」

部屋に行くと、亜美はくつろいだ様子でスマホを触っている。すごく、嫌な感じがする。私はそれを口に出したりしない。亜美は口に出す。

 亜美はよく友達の陰口を言う。それと、学校にいる不細工な先生の話、ゲームの推しの話、私に似合いそうな化粧や服の話、私が見せた絵の感想、その他、色々。私はあまり喋るのが好きじゃなくて、いつも聴いて、相槌を入れるだけ。亜美はそれで良いみたいだ。私は、そういう話はあまり聞きたくない、興味がない。特に、陰口は言ってほしくない。

「今日で、しばらく会えないんだ」

亜美が振り向いて言った。ツインテールがふわりと揺れる。

「うん」

「寂しい」

「ごめん」

亜美は目を細めて笑った。

「じゃーね」

「ばいばい」

ドアが開く。空はすっかりオレンジ色、もうすぐ、夜が来る。太陽が沈む。

新学期が始まって、外よりも冷たく張り詰めた空気の学校でひたすら勉強をしている。体が燃え尽きて空に消える想像を時々してしまうくらいに疲れきっているけど、根性でどうにかこうにか乗り切っている。

二年生から予備校にも通っているが、最初の方は浪人生に打ちのめされることが多かった。しかし、長く描いてるから仕方ないとは言ってられないので、浪人生の席を奪う気持ちで常に取り組み、最近のコンクールではやっと上位二割に食い込んだ。

同じ志望校の友達も出来た。夜間コースだから夕飯を一緒に食べにいくことも多い。浪人生も何人かいるけど、みんな絵が上手いから色々教えてもらっている。

亜美とはもっぱら通話しかしていない。それもたった十五分程度のことだ。寂しい思いをさせているんじゃないかな、心配だ。

この頃、亜美はインターネットで知り合った年下の男の子の話をするようになってきた。

「セリフのリクエストとかさー、したいのにシュキームもやらないんだよ! だから、春休みになったらオフ会して、そこで色々言わせちゃう」

スピーカーから聴こえる笑い声には興奮が混じっている。

「そうなんだ」

シュキームとは、ここ五年で大きな伸びを見せているらしい大手配信サイトのことだ。私は流行には疎く、亜美がその話をしなければ知らなかった。

 違う世界の話だ。

「そういえば最近、中国で変なウイルス出てきたらしいよ」

「知ってる」

「死亡者出たらしいけど、あれ言うほどだよね? なんとかなるでしょ」

「だといいけど」

ニュースで見たけど、コロナウイルスという新種のウイルスが発生したらしい。私達は少しだけ不安だった。

でも、感染症というとインフルエンザの印象が強いから、しばらくで収まるだろうと思っていた。

二月、試験の結果が出た。志望校以外は全て、武蔵美も合格していたが、私は浪人することに決めた。後少しだったんだ。後少し、二次試験の点数がもっと高かったら合格だった。どうしても、行きたいと思った。

迂闊だった。後悔した。緊急事態宣言の発令で予備校に行けなくなった。私は息が苦しくなり、始業の延期を知らせる通知が来た時、一日中頭を抱えたり壁を見たりして、ぼーっとしていた。

それでも、こんなことをしてはいられない、という思いで私は立ち上がった。

自室は少し物が多いため、自宅の三階、姉が六年前に就職のため出ていった後の物置部屋を作業に使うことにした。家族の手伝いも借りながら数日間で片付け、置き場所が無い物は全て買い取りに出した。すっかり物が無くなってしまうと、七畳くらいのスペースが出来たので、インターネットで買ったジョルジュやブルータス等の石膏像を置き、レジャーシートを引いて練習を始めた。流石にもっと広い方が嬉しいとは思う。自宅の方が安心感があって集中しやすいという利点もあるし、こういう時に我儘も言ってられないので、私はとにかく手を動かし続けた。涙が出るのを抑えながら。

亜美とは週に三回くらいしか話さなくなった。

 浪人一年目、五月七日、朝の五時半ば、朝食を済ませた後、スマートフォンを見ると仁先輩からいつもの画像が届いていた。

仁先輩は、私が美術部に入ろうとしてた時は三年生で、勧誘をしていた。画家になる夢を体を揺らしながら熱く語ってくれてアドバイスも沢山くれたけど、ある日突然、蝋燭の火が消えたかのように生気の無い顔で、美大受験も画家の夢も諦めて普通大学に進むことを、淡々と話した。理由を訊いたら、

「玉石混交だよ、君が玉で僕が石だ。これ以上、言えることは無い」

と、ぼやくように呟いていた。そんな先輩だ。

 私は、大学に入ってからも時々仁先輩とメッセージを送り合っていたけど、ある日、先輩から

『彼女ができちゃった』

とピースサインの絵文字付きのメッセージが来た時は、

『実は、私も去年出来ました』

……とは言えず、仁先輩の惚気話を静かに聞いていた。

 私は先輩の絵を見た。彼女さんを描いた絵だ。毎日、私が朝食をとっているくらいで決まって写真が送られるから、食べ終わった後にいつも感想を送っている。

私は、それらを良いと思ったことが一度も無い。高校にいた時の先輩ならパースや人体の構造を守って描けたはずなのに、全ての絵が致命的なまでに崩れている。分かるように言うと、腕の太さや長さが左右で違う、腰から下が明らかに捻れている、という初歩中の初歩のミスを犯したものばかりということだ。背景も描かれているが、逆パースによる立体感の無さに荒い線が悪く作用し、そこがどんな場所なのかさっぱり分からなかった。

最初に絵を見た時に、私は

『これってアイデアスケッチですか?』 

と、悪意無くメッセージを送った。返ってきたのは、

『作品だよ』

の一言だった。

私は何も返さないまま、流石にこれは無いよね、と困惑した。

でも、毎日見ていくと、先輩の絵の良いところが分かるようになってきた。私が見た中では、描かれた彼女さんの体は凡そ人間のそれではないのだけれど、崩れていることによってむしろ躍動感や生気が溢れているように見える。背景も敢えて平面に描くことで、人物の立体感に注目させるようにしているのだ。……と、思い込むようにしているだけで、本当は下手だと思ったままだ。流石に先輩に面と向かって本心は言えず、お世辞じみたことばかり言っている。バレてたらどうしよう。

今日の絵は彼女さんが素足を投げ出して椅子に座っている絵だ。相変わらず雑だ。下半身が短すぎる。

「あれっ」

私は感じた。今日の絵は何か違う。どっしりとした重みを持っている。そういえば、先輩にしては珍しく膝から下がちゃんと描いてあるじゃないか。何気なく、単純な興味で私は画像を拡大した。

急に恥ずかしくなったと同時に、戦慄した。

これが、彼女さんの足……。両足の踵を床に付けている。正面から描いてあるから、足の裏までちゃんと見えている。

生々しい、という言葉はこういう絵のためにあるのかもしれないと思った。強いて言うなら、女性にしては少し骨盤が開いていて足のサイズも大きめなのが気になるけど、些細な違いだ。

『写実的な足ですね。描き込み参考になります』

とメッセージを送ると、

『ようやく人様に見せられるレベルになった』

と返ってきた。

そういえば、一昨年に先輩のデッサン帳を貸してもらった時、体の部位を様々な角度から描いたページがあって、見ていた時に引っかかっていたことがあった。何故か足の部位だけが描かれていなかったのだ。他のページを探してもどこにも、先輩の描いた足は見当たらない。どうにも気になってページを捲っていたら、終わりまで来てしまった。私はページ数の少なさに疑問を抱き、金具に不自然に挟まった紙の切れ端に気づいた。

「足は描かないんですか」

「苦手だからね。好きなんだけど、上手く描けない」

「苦手ならより多く描いておいた方が……すみません」

「いやいや、その通りだと思うよ」

これだけ話しただけだったけど、この足を見ると、きっとかなり練習していたに違いない。足が好きとはつまり、求めるレベルが高いということだったのか。

 私も頑張らないと。

『先輩、足の描き方のコツを教えてください』

『僕には無理だって。先生に頼めよ』

『先輩は凄いです』

『褒めたって教えてやらないぞ』

渋る先輩を五分かかって説得し、やっとレクチャーしてもらった。

まず足の筋肉や骨、流れている血管のことを復習した上で、それを踏まえて使う鉛筆の種類について新しい知識を得ることが出来た。先輩は教えるのが上手く、特に説明の中で使われる例えが分かりやすいから、高校の時は分からないことをよく訊いていた。こういうやり取りは久しぶりで、私は懐かしい気分になった。

『ありがとうございました。先輩から教えてもらったの久しぶりですね』

『もう教えないよ? 僕のせいで間違った覚え方しちゃいけないからね。行くんだろ、藝大』

『はい』

『頑張れ』

私はありがとうという文字が付いたクマのスタンプを送り、自分の部屋にスマートフォンを置いた後、作業部屋に向かった。

 それから少し経って、七月二十日、私は予備校の帰り道を一人で歩いていた。緊急事態宣言の緩和により、ようやく登校できるようになった。夜間部だから帰りがいつも二十一時を過ぎて大変だけど、やっぱり、先生に見てもらいながら授業を受けることが一番だ。感染症が蔓延しているので外食をすることは無くなり、いつも母に夕飯を用意してもらっているけど、流石にお腹が空くので、いつも駅の近くのコンビニに行っておにぎりを買っていく。休憩時間で味わう、海苔のさっくりとした食感に白米の調和、ボリュームたっぷりのサケの風味が疲労から来るストレスを緩和している。

 帰り道はとにかく足が重い。体力もほとんど残ってない。街灯を一つ通ると、それだけ家に近づいたことになる。私は意味も無く通った街灯を数え、早く早くと地面を踏みしめる。

 邪魔だ、と思った。目の前の人物が亜美だと分かった時、私は確かにそう思ってしまったのだ。亜美は私に気づくなり、私の肩を掴んだ。痛みで顔が歪む。

「亜美」

「メッセージ見てよ」

「忙しいからいつも通知切ってる。夜にしか見られない」

「受験頑張ってエライね」

嘲るような言い方をされた。私は何も言わず、視線を落とした。

「何で付き合うって言ったの」

視線が揺らぐ。

「私のこと好きだって言ったくせに」

「言ったよ、でも」

「じゃあ何で電話してくれないの、何でメッセージ返すのいつも遅いの、私ずっと待ってるんだけど」

「受験だから出来ないよ」

「それいつ終わるの?」

いつ?

「私一年待ったけど、また待たせる?」

私の唇が震えている。何か、嫌なものが湧き出てくる。

「無責任過ぎ」

しかし、それは音も無く抜け落ちていった。私はただ、疲れていた。

「亜美、私、夕飯まだ……夕飯……」

頭に何かがぶつかった。

「香苗!」

苦しい。空が見える。空と、亜美の顔……私は上を向いている? 倒れている? 空がぼやけている。

「香苗、私の気持ちわかってくれるよね」

亜美の顔が滲んで見えない。泣き声が耳の中まで劈くように響いている。

「香苗、香苗、香苗、香苗、香苗、香苗、お願い、離れないで、嫌、嫌」

「ごめん」

「香苗……」

「私が悪い」

抱きしめられる……痛い、痛い! 亜美の名前を呼ぼうとしたが、言葉にならない。

「ねえ、これからも会ってよ」

「それは出来ない」

「じゃあ、私死ぬ」

「どういう意味」

「そのまま。ほんとに死ぬよ」

死ぬ……亜美が?

「ずっと思ってたの。家族も学校も、アイツも……味方なんて誰もいないんだから。香苗まで私の敵になるなら……あんたの部屋、私の血で汚してやる!」

亜美は起き上がって腕を捲った。私は、息を呑んだ。たくさんの切り傷がついている。亜美は愕然とした私の顔を見ると、涙塗れの顔で、笑い出した。

「私、いつも服脱がなかった。でも、これからは香苗に全部見せるね」

「……な、何、それ」

「私、香苗がいないと生きられないの。ずっと、香苗がいない時も、アイツに捨てられた時も、何度も、何度も……お願い、私を置いてかないで」

亜美の顔がぶれていく。

「それか、香苗が私のこと殺してくれる?」

亜美は静かに囁く。

「あは、それ良いかも、ねえ香苗、今から私のこと……香苗?」

「ごめん、もう、帰らないと」

藝大に受かりたい。でも、私のせいで亜美が死んでしまったら……そんなの、耐えられない。

「ダメ」

血の気が引いた。

「私を」

月が……。

「助けて」

月が……私を見ている。もう、疲れた。

 これ以上、何も考えたくない。

 

シャワーの雨が、私と亜美の体を打つ。

「愛してる」

「私も」

亜美は今日も生きている。この抱擁の温かさが、何よりの証拠だ。

「香苗、それじゃ私、帰るね」

「ばいばい」

「三十分返信ね、次ルール破ったら許さないよ?」

もっと、ちゃんと愛してあげなきゃいけない。

亜美が開いたドアの隙間から桂花の匂いが溢れ、私の顔を綻ばせる。スマートフォンを開くと、すっかりがらんどうになったメッセージアプリの登録された友達に、亜美の名前だけがある。

予備校に行かなくなって、受験も辞めて、もう一年経った。後悔なんて、無い。無い。無い。無い。無い。

「……亜美が、私でいいなら」

私はあの日、確かにそう答えたのだから。

 

夕飯の後、お母さんが私を呼び出した。

「話しかけないでって言ったでしょ」

「……香苗、予備校で何があったの。教えて」

邪魔。

「お母さん」

『予備校の人にいじめられたって言って?』

『何で言えないの? 次聞かれたらちゃんと言っといてよ』

亜美の声が頭に響く。

「すっかり変わっちゃったのね。毎日毎日、引き篭もったきりでご飯の時も出てきてくれないし、私にもお父さんにも、璃子なんて仕事も忙しいのに心配して来てくれたのよ。それなのに話しかけないでなんて……滅多に怒鳴る子じゃなかったのに。何かあったのよね」

「いじ、い、め……」

私は嘘をつくのが苦手だ。一緒に食べに行った友達の顔を思い出す。

『香苗ちゃんのことみんな心配してるよ』

『辛いことがあったら相談して!』

予備校の人のメッセージを思い出す……でも。

「いじめられたの!」

慣れちゃった。クソ親、分かれよ。私は大好きな女の子の命を救うためなら、何でもするんだよ。

 私が亜美の闇を照らしてあげるんだ。

「もう、絵なんて大嫌い!」

「香苗……」

突然、着信音が鳴り出した。

「仁先輩かよ」

公衆電話からかけてもわかる。最初はメッセージアプリの通話機能、次は電話番号、仁先輩は電話のために様々な方法を試みる。何でそんなことするの、邪魔すぎる。切った……また鳴った。

「香苗、どうしたの! まだ話は終わってないわよ、香苗」

私は気づいたら自分の部屋に篭っていた。

「何も喋らなくていい。十一月四日の十時に池袋西口のラクダクルガに来てくれ。話をしよう。一時間までの遅れなら僕は待つ」

どうしよう、私、出ちゃった。亜美が見ている時以外でメッセージを見たり送ったりはダメだし、通話なんて絶対にダメなのに……。十時、亜美はこの時間なら仕事でいない。いや、そんなこと考えちゃダメ、断らないと……。

「君の力になるよ」

私はメモをとった。何でそんなことをしたんだろう? この紙切れは亜美に見られたらダメだ。消して、破って、タンスの奥深くにしまっておかないと……。

 何でだろう、十一月四日、私は確かに待ち合わせの店に来た。

「来てくれてありがとう。痩せたね」

先輩は笑った。

『やっぱり気持ち悪い顔、魔剤とか言ってそう』

頭の中で亜美が囁く。うん、そうだね。

「僕が奢るからたくさん食べて。今日は聞きたい話がたくさんあるんだ」

私は机を見ている。

「まず、メッセージを送る時間だよ。どう考えても君が予備校に通っているであろう時間と被っている。僕の絵の感想と雑談への返信を一緒くたにすることも、今までの君には無かった」

「それがどうしたんですか」

「正直に話すんだ。何があった?」

「先輩には関係のない話です。プライバシーに首突っ込んでこないでください」

『彼女にでも捨てられたのかな? 香苗のこと狙ってるんじゃない?』

亜美の言うとおりだよ。何でこんなにズケズケ入ってくるんだろう、私には亜美がいるからダメなのにね。

「じゃあ、僕の質問に答えてくれるだけでいい。藝大は合格したの? 君いつもはぐらかすから聞いておきたくて」

「あ、いつもしつこく訊いてくるやつですね。受験はもう辞めたんですよ」

「おかしい」

『は?』

「何がですか」

「君そこまできつい人じゃなかったよ」

「先輩に私の何がわかるんですか? 心外です」

「……僕を怒らせようとしているんだね」

「先輩が私のことを怒らせようとしてるんでしょ! 帰ります」

「いいから聞け!」

先輩は拳を机に叩きつけた。客の目が一斉に私達に刺さる、本当にやめてよ。

『キモいわ』

私は席に座った。

「僕の彼女の話をしよう」

そう言うと、先輩は彼女の話をダラダラダラダラとし出した。キモすぎて全然入ってこない、こんなチェーン店で何やってんだろ、この人。

「最初は知らなかったんだけど、実は昴は、自認が女性なだけで体は男のままなんだ」

「あ、だから足が」

「そうそう! 拘りどころ分かってくれてたんだね」

「……ええー、先輩ってそっちだったんですねー。だったら私、安心していいかも。なんか、振られたから私の方に行こうと思ってるんじゃないかってー」

「その言葉が本心じゃないことを僕は知ってるよ」

『臭い! え、共感性羞恥やばいんだけど』

「話、続けてください」

「僕は志が足りなくて美大を諦めた。だから昴ちゃんの姿には心を打たれたんだ。たとえ見た目が男だとしても、自分の本当の性別に正直に在り続け、明るく、誰とでも優しく接している。まるで太陽みたいでさあ、羨ましかった」

太陽……。

「素敵な彼女さんですね」

一度、会ってみたいな。

「だからね……君もそうであってほしかった」

「そういう説教いいですよ、言われなくてもやってるんで」

「君にこれをあげるよ」

先輩は絵を渡してきた。

「あっ、これ」

「君が最初に褒めてくれた絵だよ」

最初に、という言葉から察するに、やっぱりお世辞だとバレていたみたいだ。

「ごめんなさい、先輩」

「気にしなくていい。それよりどう? 実物を見て」

『こんなキモい絵渡されてもどうしたらいいかわかんないんだけど』

そんなことない。

私は、丁寧に描かれた足の形をなぞりながら、じっくりと絵を鑑賞する。

「やっぱり、こういうのは画像だけじゃわかりませんね。こう見ると、足の立体感が手にとるように感じられます」

「絵はもう手にとってるけどね」

「ふふっ」

「……安心したよ。まだ、君のままの君がいて」

先輩の言葉で笑った自分は、どこか朗らかな気持ちだった。それに気づいた瞬間、また心の中を闇が包み込んでしまった。包み込まれるのがわかった。

「絵、描きたくなった?」

どこからか、懐かしいあの匂いがする。カッターナイフで鉛筆を削る音が聴こえる。デスケルから見える対象物の景色が私の心をときめかせたのは、それは……。

『私を助けて』

「それから、もう一つあげるものがあるんだ。クロッキー帳だよ」

「ハルランの……」

「ほら、僕の画材を貸してあげるから描きなよ」

手に持った鉛筆が、勝手に動いている。違う、私は今、絵を描いている。

 絵を描いているのは、私だ。

「先輩」

「ん?」

「藝大行きたい」

涙が溢れてきて、描いたたくさんのイメージが滲まないように、と、顔を背けた。

「教えてくれる? 君が夢を諦めなければならないなんて、よっぽどのことだよ。何があったんだ」

私は、先輩に全てを話した。

「別れよう」

と先輩ははっきり言った。その瞬間、心からさっと闇が消えるような気がした。

「でも、亜美は別れたら自殺するって」

「別れるから自殺するんじゃない、彼女が自殺したいと思うから、自殺するんだ」

そうだったのか。

「絵が好きなんだろう。絵を描くことを、絵を描くために藝大に行くのを邪魔する彼女と付き合い続けるつもり?」

「邪魔っていうのはあまり言い方が」

「じゃあ予備校辞めさせたのは?」

邪魔してるかな。

「ブランクは空ければ空けるほど取り返すのが難しい。今日にでも別れて、やり直していこう」

「私……やり直せるんですか」

ブランクという言葉で我に返る。そうだ、私、絵を辞めていたんだ。あんなに好きだった絵を、辞めてしまっていたんだ。押し寄せる一年分の喪失感が、私の目から涙となってとめどなく溢れ、止まらない。

 嗚咽する私の前に、ポケットティッシュが差し出された。私は、

「ありがとうございます」

と言って、鼻水を啜った。

「僕も君と家に行くよ。何かあったらすぐに駆けつける」

 

「何それ、今更そんなこと認められるわけない」

私は、亜美への思いを全て伝えた。

 天井だ。

「亜美……これが私に出来る限界だよ」

「じゃあ死のうよ」

「私は亜美から離れて生きる」

「そんなこと、させないから」

首が絞まっていく。

「亜美の望むことは、私には出来ない。だって、私は今、私の人生を生きているのだから」

「私を捨てないで!」

意識が遠くなっていく。何かが燃えている。心の中から、湧き上がるのは死への恐怖だけじゃない。

「亜美、愛してる」

亜美の腕を掴んだ。

「離してよ」

私は、力いっぱい腕を押し上げた。浮いていく。生きたい……!

「誰か、助けて!」

「……何、誰もいないのに。無理だよ」

叫んだ衝撃で手の力が緩み、私はまた首を締められる。その手をどうにか上げる。先輩はきっと、叫び声に気づいて警察に電話しているはずだ。これで全て、終わる。

 

 月は、本当は臆病だ。自分には闇を照らせないと知ってて、借り物の光に頼っている。本当は光ってなんかいないのに。

「太陽は眩しいよね」

太陽になりたかった。亜美のことを照らしてあげたかったけど、あのままなら私はきっと闇に呑み込まれていただろう。どの道、私は亜美を救えない。私には叶えたい夢があって、そこに時間を割きたいと思っているから。

私の猶予期間は、終わった。

「行ってきます」

「おにぎり忘れてるわよ」

「ありがとう」

ドアを開ける。十二月の冷たい空から、桂花の匂いは掻き消えていた。

 

@ptymiruka
ァァ…