遺志-2024年修正版-

ptymiruka
·

 幼い頃に家族みんなで公園に行った時、僕はシーソーに乗ってきゃあきゃあ笑う親子をよそに独りで砂をいじっていた。

 母さんが肩を叩き、

「遊具で遊んできなさい」

 とにこにこしながら言う。父さんは、

「怖いか。父ちゃんが乗せてやるぞ」

 と少し嫌がる僕を無理やり肩に乗せて、すべり台に向かった。

 僕はすべり台から地上を見下ろしてみた。子供心には地面がすごく小さく見え、テレビで何度か見た、悪い顔の人に崖から落とされる人がフラッシュバックする。初めてのすべり台はとても勇気がいることだった。

 でも、当時の僕はそれを持ち合わせていなかったのではないだろうか。「大丈夫だって。男だろう」

 父さんが言った。つまり、親の言うことは小さい僕には絶対だったから滑らざるをえなかっただけというだけだ。

 恐る恐る滑ってみた結果は意外と悪くないので何度も何度も階段をあかけ上がって滑ってを繰り返す。数回滑って横を見ると、母さんと父さんは楽しそうに笑みを浮かべていた。喜んでいるのが嬉しくて、僕も自然と笑みがこぼれた。家族は満足のひと時を過ごした。

 小さい頃の思い出はこれくらいだった。僕はいわゆるいい子に育ったが抑圧されるような感覚はなく、むしろ幸せに満ちた幼少期を過ごした。

 そうして、小学生になった。

 小学校の思い出は、何も無い。僕は学年があがるにつれ崩壊していくクラスを尻目に、周りから見ればいたって普通の生活を送り、中学生になるのだった。

 部活は美術部にした。絵が好きだからだ。美術部は僕以外全員が女子だったので、入部するなり物珍しさから質問攻めに遭った。

 まず、地毛が茶色いロングヘアの先輩が、

「このキャラ知ってる? 」

 と、アニメが好きだとは一言も言っていない僕に頬を膨らませた男の絵を見せてきた。素人目には結構上手く見えるその絵を適当に褒めると、

「優しいんだね」

 と、言われた。笑顔に冷たい間が流れた。どうやら適当に褒めたせいでお世辞だと勘違いされてしまったらしい。僕は、なんとか話を変えた。

 しばらく先輩と談笑し、話ぶりからして、茶髪が校則違反ではないことに気づき始めた頃だ。ライトノベルの話で盛り上がっていたはずの周りの女子がいつの間にか僕を囲んで話しかけてきた。

 僕は、知らない漫画の話を一方的にされたりいろんな人の絵を矢継ぎ早に見せられ、苦笑いしかできなかった。「絵を描いて」と言われ、とりあえずで猫の絵を描くと、

「うま!」「超かわいい」黄色い声がとびかった。恥ずかしくて嬉しい、なんだか不思議な気分になった。

「ありがとうございます」

 部活が終わり帰る支度をしている途中、同級生の部員達が一緒に帰ろうと誘ってきた。僕は断った。今日が花粉症の薬をもらいに病院に行く日だったことを、途端に思い出したのだ。母さんが待っている、と僕は急いで走り出し、校舎を出ると、思った通り既に着いていた。

 助手席に乗ると芳香剤の匂いがするのも、クラシックが流れているのも何も変わっていない。僕の疲れきった顔を見た母さんは、遅れたことについて何も言わなかった。ただ

「おつかれさん」とだけ言って、僕の眠りを邪魔しないようにしていた。

 そんな気遣いに対して「遅れてごめん」の一言も言わず、僕はG線上のアリアを聴きながら到着するまで死んだように眠った。

「もうすぐご飯よ。って、勉強してると思ったらあんた何描いてるの」

 美術部に入って三日目の夜、母は買ってもらったばかりのスケッチブックを覗きこんで言った。描いてるのを邪魔されると少しイライラする。何も言わない僕。母は、

「絵を描くのに集中するのはいい事よ。ただし、勉強もしなさいね」

 と耳が痛くなる小言を言って、台所に戻った。

「できた」

 僕は一眼レフカメラで撮った猫の写真を丁寧に模写していた。丁寧に模写していたつもりだった。

「あれ?」

 完成したものを見ると左と右で二つの目の位置がズレている。まるで、ぼろぼろになったぬいぐるみのボタンの目のように。線はふにゃふにゃとして頼りなく、体と顔のバランスも全くあっていない。

「ん゛」

 頭を抱える僕。ああ、失敗した。「みゃあん」

 突然ききなれたごろごろ音と共に彼は現れた。

「ほまれ、どした」「にゃぉう」「うん?」

 いかにも甘えたそうな声で鳴くうちの猫、ほまれは一昨年に母さんの知り合いから譲り受けたオスのアメリカンショートヘア。友達が来て騒いだり撫でてみたりしても我関せずといった顔をする、しっかりした猫だ。反面、当時圧倒的な犬派だった父さんをすっかり猫バカに変えてしまうほどの甘えっぷりを見せることもある。

「ね、これほまれ」

 ほまれは尻尾を揺らしながらじっと僕の絵を見ている。と思ったら急に膝の上に乗ってきた。重い。重いんだけど、これがまたかわいいのだ。

 ちょうど本人、いや、本猫(?)がいるので僕はほまれの顔と絵の中のほまれを交互に見た。比較すると、分かってはいたけれど全然違うものだった。

「今度はもっと上手く描くからね」

「にゃん」

「ほまれ、今年も暑くなりそうだね」

『大事な話だから、ちゃんと聞いてほしいの。あの子が』

「今年も、夏がやってくるんだね」

次の日、僕は美術の先生と話をした。

「先生、絵のことを教えてほしいのですが。あ、えっと、ぼ、僕イラストレーターになりたいんです」

「君は、小学校の時人権ポスターで入選した、と聞いたよ。どんな絵を描いたのかな」

「いじめのことについてです」

「なるほど。なかなか重い題材だね」

確かに重い。でも、僕が題材にいじめを選んだ理由はみんなが描いているから、というとても単純なものだった。

「ざっくり聞くけど、そもそも君はなぜイラストレーターになりたいんだ」

「えっと」

言葉が思い浮かばない。時間の流れが遅く感じる。何か言わなければ。何か。

「僕、勉強も苦手で、得意なことって言ったら絵くらいしかなくて。絵を描いている時は楽しいんです」

「絵も、勉強と同じだよ」

 僕は黙りこんだ。

「遊びで描いているだけじゃ上達しない。絵を描くことを仕事にしたいならそれに見合うだけの技術力を手に入れないと。その技術力を手に入れるには、美術の勉強をしなけれはいけないんだ。苦しいことから逃げるために絵をやっても上達はできないよ」

 イラストレーターの夢は、本気のつもりだった。でも、やっぱり僕は心のどこかで逃げていた。美術だって勉強なんだ。目が覚めた僕を先生は見た。先生は、ひとつ咳払いをして、にっこり笑った。

「君のところは明日が授業だね」

 こうして、僕は本格的に絵描きの道に向かっていった。

『絵、得意なの?』

『得意じゃない。好きなの』

『ふうん』

 クラスでは男女問わず何人か友達が出来て、たわいもない話で盛り上がっていた。美術室では談笑する女子を尻目にあまり得意ではない手のデッサンをひたすらやり続けていた。

 部活が終わったら、先生にデッサンの良い点と悪い点を分析してもらった後に授業を受けた。僕はめきめきと腕を上げ、先生や他の部員を驚かせあの茶髪の先輩から嫉妬の目を飛ばされた。先輩から無視されたり物を隠されても我慢していたが、大切なスケッチブックをゴミ箱に入れられた時にはこんなに大きな声が出せるのか、と思う程の大声で先輩を怒鳴りつけ、今まで見て見ぬふりをしていた部員も僕の味方をし始め、先輩は騒ぎを聞いた先生に即退部させられた。やりすぎなんじゃないか、と聞く僕に先生は、

「他人の道具を捨てるような者に部活をやる資格はない。もしこれが野球だったとして、相手の思い出がたくさんつまったグローブやバット、ボールを勝手に捨てられるか?」

 と冷静に言った。僕はスケッチブックの上に手を置き、顔を真っ赤にして涙を流した。

 いろいろあったけど、絵を描くことは本当に楽しかった。

『もうすぐ夏休みだけど、俺んちくる?』

 クラスの友達グループのチャットに通知が来た。グループのリーダー的存在、裕貴からだった。成績よし、性格よしの完璧人間だ。

『いいね!』

『いつ?』

『来週からならいけるー 』

『再来週に大会があるんだよな』

『俺はコンクール』

『まーじか』

 僕はスマホの文字を打つのが苦手で、読んではいるのだけど会話の流れの速さに全くついていけていない。

『投票しよう』

『おけ』『了解』

『明後日までに投票よろしく』

『複数投票は?』

『複数投票ない』

『あ、すまん。直しておく』

『無投票は全部無理ってことで』

『おっけー』

(OKのスタンプ)

『じゃ、明後日までな!よろしくー』

『はーい』『了解』

チャットの流れが止まり、僕はスマホを閉じた。

「夏休みかぁ」

 冷房の効いた自室の中にいると、外の暑さが容易に想像出来る。先生がこの期間は個別授業をしないと言ったので、僕は宿題を丸写しで消化しながらひとりで絵を描き続けることになった。

 今は、地元のフラワーパークで撮ってきた向日葵の模写をしている。絵にかけた時間は十時間を超えているが、そんなこと、今の僕にとっては当たり前だ。嫌な先輩がいなくなってからはひたすら絵に集中することができて、もはや徹夜でスケッチブックに向かっていても全く集中が切れないようになっていった。先生には感謝しかない。写真の中の大輪の向日葵と光の照り具合を目に焼きつけ、その魅力をできるだけ正確に具体的に描き写す。

 完成すると、窓から差し込んでいた朝日はすっかり夕日に変わっていた。「あーおわった」

 窓枠に鉛筆で黒ずんだ手を当て、ピンク、赤、紫、黒とまるで水彩絵の具で塗ったかのような美しいコントラストを作った空を見る。一仕事終えた僕の目の保養だ。僕はほっとため息をついた。

 しかし、ここで気を抜いてはいけない。写真と絵を見比べてノートに良かったところと悪かったところをひたすらメモしていく作業に移る必要があるからだ。これを書いているうちに日は沈む。

 終わった後、予定がどうなったか気になるのでスマホを開いた。

『同票か』

『俺片方部活だな』

『俺も』

『よし、この二つで決戦投票する。決まったので無理な人いたら、仕方ないから、八月にまた』

『了解』『あい』『おけ』『わかった』

日を確認したが、僕はどっちでも良かった。

 時刻を見るともう十八時を回っている。そろそろ来そうだと思い始めた瞬間に、決まってドアは開く。

「もうすぐご飯だから手伝っ」

 僕に夕飯を告げに来た母さんが、まるで速度制限のついたスマホみたいなフリーズの仕方を見せた。しばらくして我に返った母さんは、僕の描いた絵の方にじわじわと近寄って、驚いた様子で言った。

「これ、あんたが描いたの」

「うん」と言った瞬間、母さんは今まで見せたことのない、とても神妙な顔になった。

「あんた画家になれるわ」「母さん?」「実は、あんたのことずっと誤解してたの。遊びでやっているのだと思っていたのよ。でも、やっぱりそうよね。あんたは、ずっと本気だったのね。とても、素敵な絵よ」「ありがとう、母さん。あ、あのぼ、僕イラストレーターになりたいんだ。だから、えっと、その、あの」

どぎまぎしている僕に母さんは言った。

「画家になさい」

「えっ」

「大成できるわ、きっと。お父さんの血が流れているのだから」

 夕飯を食べ終わった後に、母さんは僕が物心ついた時には既に亡くなっていたおじいちゃんの話を始めた。

 おじいちゃんは、画家としての人生を生き抜いてきた人だった。地方都市の、僕でも名前を知ってるくらいの有名な美術大学を卒業したおじいちゃんは大会でいくつか賞をもらい、個展を開き、古くからのファンだったおばあちゃんと結婚し、母さんと叔父さんを育てた。

 性格は無口で無愛想、絵を描き始めると止まらず時には朝から晩まで部屋から出ないこともあったけど、自分の実力に対してのストイックな姿勢は、家族の憧れだったと母さんは言っていた。

 おじいちゃんの背中を母さんよりも長く見て育った叔父さんは、

「画家を目指してたわ」

「そうだったんだ」

「でも、兄さんはなかなか売れないからやさぐれちゃって、用事もなく都会の方に行ってどこかほっつき歩いては酔っ払って帰ってくる、なんてこともあったわね」

「お母さんは心配してたけど、お父さんははずっと我関せずって感じだったわ。結局、諦めて就職してるけれど」

『これは紫陽花の絵、これがアサガオの絵』

『きれい! 』

『ほんとに』

『ほんとだよ』

「母さん、僕、おじいちゃんの絵が見たい」

「そうね、今年もいつも通り実家に戻るから、その時までのお楽しみ」

「母さん、その、ありがとう」

「私は、あんたみたいな息子をもてて幸せよ。ただ、勉強はちゃんとやるのよ」

 ドアが閉まった。

 確かに、実家にはたくさんの絵が飾ってあったが、あれは全て、おじいちゃんの絵だったのだろうか。なんとなく見過ごしていて気づかなかった。

 でも、僕が画家の血を引く子供だったなんて、母さんがこうも僕のことを応援してくれるなんて、嗚呼、今日は驚くことばかりで気持ちの整理が追いつかない。この日は二時間くらい眠れなかった。

『嘘つき』

『きれいだよ』

『どこが』

『えっと』

『やっぱり言えないよね』

『みんな嘘ついてる、私知ってるから』

『あ、花びら! 花びらの色がきれいだった』

『花びら? 』

『うん』

『なんかむりやりだね』

『でも、きれいだよ』

『ありがと』

『大人になっても絵を描くの? 』

『うん。私ね』

 朝が来た。今日は友達の家に遊びに行く日だ。

「おーい」

「おはようたかちゃん」

「お前、その大荷物なんだよ」

「これ?人権ポスター描こうと思って持ってきた」

「へぇ」

 他人の家で人権ポスターとは如何なるものかと思うが、裕貴の家は、とてつもなく広い。部屋一つだけで僕の家のリビングくらいあるのだ。僕もそんなに貧乏ではないが、これはもう異次元という言葉でしか表せられない。何度も遊びに来たのにまだ慣れないくらいなのだから。

 家に着くと、僕はノートとポスターを取り出した。ノートに書いたアイデアスケッチを元に、鉛筆で大ざっぱに描いていく。すると、裕貴が話しかけてきた。

「絵うま」「まだ下絵だよ」「下絵に見えないよ、さすが美術部」「それほどでもないよ」「美術部かっこいいな。俺からしたら憧れだね」「裕貴は外部でガチってるじゃん」「趣味だよ趣味」

裕貴はこんなことを言っているが、彼は所属している外部のオーケストラで首席奏者だと風の噂で聞いた。ウン百万円するバイオリンを所有しているらしいが、これもまた、風の噂だ。

 寝坊した奴がいたおかげか、全員が集まる頃には下書きはすっかり完成してしまった。

「えっうっま」「こんな絵上手かったっけ」「すげえ」うーん、そういうことじゃない。

「褒めてくれるのは嬉しいけど、なんか、その、絵から言葉が伝わってくる、とかないかな」

「なんかって言われても」

「それ、難しいよ」

「裕貴は? そういうの得意だろ」

「えー、そうだなぁ、一人がもう一人の手を引っ張って笑いあってる。友情の大切さ的な感じの絵だよ、な」

 やっぱり的確だ。僕が絵で伝えたいことをぴったりと当てる。

「そうなんだよ!」

「確かにそう見えてきた」

「しかし、上手いな。画家になったら絶対個展行くよ」

「画家って、俺の夢、何で」

「いや、なれそうだから。絵がそう言ってるよ」なんだか詩的だな。

「んだよそれ」

 皆で爆笑し、しばらくして笑いの波が引いた後、やっぱり何を言っているか気になるので、絵の言葉を聞いてみようともう一度見た。

 何もわからない。ああそうか。裕貴は異次元の人間だから、人間の言葉以外だってお茶の子さいさいだったな。

「楽しかった!じゃーな」

「俺も楽しかったよー」

「またね」

 カラスの鳴き声のせいか、お腹が空いてきた。家に帰ってからも絵を見つめたが、言葉の音は聴けなかった。

「行くよ。忘れ物はない? 」

「うん」

「先行ってるぞ」

 待ちに待ったお盆の日。このために僕は宿題を(答えを写すことで)全て終わらせ、思い残すことなく旅に向かうことが出来た。

 おじいちゃんの絵。どんな絵なんだろう、母さんの話を聞く限り、古めかしい日本画なのかな。そんなことを予想しながら、駅へ。

 電車を乗り継げば乗り継ぐほど、街並みが変わる。ある時は都会だったり、またある時は田んぼだったり、海の上の鉄橋だったり。変わりゆく景色に、僕の目は釘付けだ。

 母さんの実家は、東京の方でも少し田舎じみた場所にあった。最近リフォームしたので馴染みがないが、玄関に上がると何も変わっていない様子のおばあちゃんが僕らを出迎えてくれた。「ただいまー」

「お久しぶりです。お変わりないようで」

「お久しぶりですー。あらぁ、大きくなったわねぇ」

「あ、その、久しぶりです」

「声もしっかりして。ちょっと前まであんなに小さかったのにねぇ。孫の顔が見れて嬉しいわ」

「兄さんは」

「今日は帰りが遅くなるみたいでね。それより、今日は長旅で疲れただろう。こんなところで立ち話もなんだから、さ、あがってあがって」

 おばあちゃんは、いつもの優しくて懐の深いおばあちゃんだった。

 世間話が少し落ち着くと母さんが切り出した。

「お母さん、電話でも言ったんだけどね。この子、お父さんの絵が見たいらしいのよ」

 おばあちゃんの顔つきが変わった。

「そうそう、そうだったね。こういうのは早い方がいい。あんた、おばあちゃんについてきておくれ」

「う、うん」

 立ち上がった時の僕の顔はやけに大人びて別人に見えたものだ、と、展覧会の後で父は笑いながら話した。

 廊下を歩くおばあちゃんは、年を感じさせるないほど、逞しく、頼りになる背中を見せていた。

「あの人は、本当に絵を描くのが好きだったよ。ご飯を食べるのも忘れるくらいに没頭して。おかげで食費が浮いて助かったね」

「おばあちゃんは、寂しくなかったの」

「全然全然。むしろ、完成した絵を見るのが楽しみで仕方なかったのよ」

 聞けば、まだ売れてなかった頃に路上で絵を描くおじいちゃんの姿を見て、一目惚れしたというのだ。おじいちゃんは絵が上手いだけでなく、若い頃の写真を見る限り、とても男前だった。

「ここが、作業部屋。昔のまんま、何も変わらないよ。本当は誰も入れないつもりだったけど」

 ドアを開けたその瞬間、僕の目に瞬間的に大量の情報が飛び込んできた。石膏像のスケッチ、絵の具の跡がたくさんついた床、机の上に無造作に置かれた黄ばんだ本、年季の入ったディーゼル、壁に貼られた大量の絵や家族写真、カメラマンが撮ったと思われる動物や魚の写真、何十年も前のランタン、小さな窓。

「アートよねぇ」「うん」

 まさに絵のための、絵描きのための空間だ。圧倒されて何も言えない。

「ん、しょ……これは三十年前の作品だね」

 写実的な西洋画だ。くるんとした金色の髪を純白のリボンで結んだ十二歳くらいの少女が、不安げな表情で胸に手を当てている。全体をもう一度見ると、行き場のない迷いが聴こえた。

 僕は他にもたくさんおじいちゃんの絵を見せてもらった。どの絵も、見る人の感情に深く訴えかけるが、詳細な解釈は見る人に任せるというスタンスを貫いていた。

「すごい」

 全て見終わってやっとひねり出した言葉だ。おじいちゃんの絵は僕に話しかけていた。裕貴の言ってることが、ようやく理解できた。

 作業場を閉め、僕とおばあちゃんは仏壇の方に歩いていた。

「孫が画家を目指してると知ったら、指導に飛んでくるかしら」

 僕は金色の仏壇の前で手を合わせ、感謝と、画家を目指すという決意を心の中で述べた。

「そういえば肝心の絵をまだ見てなかったわ」

「荷物のところにあるからとってくるよ」

 僕が見せるのは人権ポスターの絵。まだまだ美術部に入って日が浅い僕が、自分の全てをこめた初めての作品だった。その絵を見せると、おばあちゃんはとても安心しきった顔になった。

「あら、若々しくて良い絵だこと。それに、やっぱり似てるわねぇ……繋がってるのね……あなた」

 おばあちゃんはメガネをゆっくりと外し、涙を拭いた。きっと、絵の中の言葉は伝わったのかもしれない。

「おじいちゃんと、莉緒の分まで長生きするんだよ」

 おばあちゃんは僕の頬を、僕の心を優しく撫でた。

 十年後、僕はがらんどうになったこの家に1人で住み、祖父のアトリエで絵を描き続けている。偶然大学が近くにあったので良かった。

 時々、祖父の絵と去年描いたばかりの僕の模写を比べてみるが、やっぱり祖父の絵に近づくにはまだまだ実力が足りないことを痛感した。

 僕は今、おじいちゃんと初恋のあの子と一緒に筆を握っている。それは、小学生の時に始まり中学生になって確立された、自分なりの絵の描き方だ。

「遅いよー 」

「ご、ごめん」

「どうしていつも遅れるの?準備すればいいのに」

「うう」

「どう?浴衣似合ってる? 」

「え、えっ、と。うん」

「あはは、行こう! 」

「う、うわぁ、引っ張らないでよ」

「あんまり遠くに行き過ぎないようにねー」

「わかったー!ママ、お面お願いー! 」

「花火、すっごくきれい! 」

「カメラ持ってきたんだけど、上手く映らないなぁ」

「分からないの?こうしてこうして、こうだよ。ほら、撮ってみてよ」

「う、うん」

「撮れた? 」

「ぶれちゃった」

「もー、私が撮る。ん、よしっと。はいどうぞ」

「す、すごい。ちゃんと映ってる」

「こんなのおちゃのこさいさい」

「おちゃ? 」

「知らないの?かんたんだってことよ」

「知らない」

「ふーん、あんたってバカなのね」

「バカじゃないし」

「うわ、何泣いてんの?女の子みたい」

「りおちゃんが、いじめるから」

「ふーん。泣き虫ね」

 展覧会で、嬉しい出会いがあった。

「大賞おめでとう」

「裕貴!来てくれたのか」

「来るに決まってんだろ。友達じゃないか」

「本当にお前は良い奴だな」

「しかし『私の人生』か。とても幸せな絵に見えるな」

「わかるのか?同期の友達、みんな口を揃えてこの絵を暗いって言うんだよ。審査員とお前と家族だけがわかってくれるんだよ」

「だからこそ、味わい深い絵なんだ。見る人によって解釈が変わる。それも真逆の方向に。お前、昔から天才だったよな」

 想定外の言葉に、僕はひどく驚いた。あの裕貴が、僕に対してそう思っていたなんて。

「お前は昔から完璧だったろ」

 僕は笑顔でそう言った。

「久しいな、大賞おめでとう!」

 懐かしい声がしたので振り向くと、そこにいたのは。

「せ、えっ、先生じゃないですか、どうしてここに」

「いやぁ、知り合いの息子が佳作だったので来たが、素晴らしい偶然だ。随分、大きくなったなあ」

「先生、本当にありがとうございました。先生のおかげで、ぼ、僕、こ、ここまで」

「お前を生徒に持てたことは、私の誇りだよ……ありがとう。……ありがとう」

 先生も、泣いていた。

 ああ、僕の初恋の、そしていとこの莉緒ちゃん。あなたは僕に可愛らしい浴衣姿を見せたっきり、いなくなってしまった。僕の知らないうちに熱中症でばったり倒れ、そのままあっけなく死んでしまった。

 今、僕は遺志を継げたと思う。君が、まだアイデアも考えていない、白紙の絵に付けたタイトル。それを、君が夢を語った時から十五年を経てようやく完成させることができたのだから。

 今日も蝉がけたたましく鳴いている。僕は仏壇の掃除をして、祖母と祖父、二人の遺志も継ぐことを約束し、手を合わせる。

「私ね、日本で一番の絵描きさんになりたいの」

「なれるかな」

「わかんない。でも、なりたいの」

「どんな絵を描くの」

「えっと、ね……こぉぉんなにおっきい絵を描くの。題名は、私の人生!」

「大きな夢、だね。頑張って」

「何それテキトーすぎい。あんたはなんかないの? 」

「え、ぼ、僕は、うーん」

 今なら言える。僕は、世界で一番の絵描きさんになる。

 君達を、君を超えてみせる、と。

@ptymiruka
ァァ…