音楽との出会い

ptymiruka
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「今日も残っていくんだ」

「うん。」

美晴と呼ばれた少女が、西日の陰の下、椅子に座っている。

「無理しないでね。」

「うん。」

足音が教室のドアから廊下に向かって響き始めると、美晴は水筒を持った。細めの飲み口を下唇に置いて喉を満たすと、ガラガラと音がして、小さな氷が一緒に入ってきた。しばらく噛み砕く。水分補給が終わると、楽器を構えようと水筒を置いたのだが、なんだか頬の汗がじれったい。椅子に掛けたタオルを取り、肌を少し撫で、やっと楽器を構える気になった。メトロノームを曲のテンポに合わせ、鳴らす。アンブシュアを教えられたように整える。湿った下唇を少し巻き、顎は下に伸ばし、リードに置く。上唇の前歯は、マウスピースに取り付けられたパッチに置く。整えるのは口まわりだけではない。椅子にもたれた背筋を伸ばし、浅く座り直す。足は左足を前に、右足を後ろに置く。楽器に息が入りやすい姿勢だと、先輩が言っていた。準備は整った。息を吸い込む。

作者です。少し用語の説明をしたいと思います。美晴も私と同じクラリネットを担当していますが、アンブシュアとは楽器を吹く時の口周りの姿勢のことで、どの管楽器にも存在します。学校ではお馴染みの管楽器、リコーダーにも実はアンブシュアがあるのです。ただし、楽器によって求められるアンブシュアは異なります。アンブシュアに限らず、適切な持ち方や姿勢なども楽器によって異なるので、違う楽器を吹く時はその楽器のルールを学ぶ必要があるのです。ただ息を入れるだけでは吹けません。だから、美晴はあのように複雑な動作をとってからクラリネットを吹いているのです。姿勢について、初心者の頃はどうしたらいいのかわからず間違った姿勢で吹く人もかなり多いですが、練習を繰り返すこと、自分の姿勢を鏡で見たり先輩や友達に見てもらったりしてチェックすることで、良くなっていきます。姿勢や吹き方は早い内に矯正しないと癖がついてしまうので、楽器を始めたい人は気をつけてください。ちなみに、私はどちらかといえば悪い方ですね、いやはや。

「……っ」

唇を離す。十小節目、ここで何度も指がもつれて吹けなくなる。ペンを取り、楽譜の七連符の周りの、幾重にも重なる円の上に更に円を描く。無駄な動作だが、美晴には余裕がなかった。出来ないのは自分だけだからだ。なんとしてでも吹けるようにしたかった。

「苦手なフレーズは、まずはテンポを落として吹いて、少しずつ早めて、元のテンポに戻る。これを繰り返せば、その内吹けるようになる。」

美晴は尊敬する先輩の言葉を反芻する。教えられた通りにする。静かな教室に同じフレーズが何度も響き続ける。

「あっ」

ダメ、もう一回。

……ダメ。

「ま、またっ」

ダメ。

「はぁ……はぁっ」

ダメ。

「……はぁっ」

穴が空くように楽譜を見つめる。そうしたところで、自分の指は動いてくれないのだが……。才能、という言葉が頭をふとよぎり、たくさんの言葉が美晴を襲った。

「ソロは紗里さん、お願いね」

「ここ莉音さん、由美さん、紗里さんで吹いて。他の人は練習してください。」

「何で同じ間違いを繰り返すの。ここ音程が高いの、紗里さんと比べてみてわかったでしょう」

「一人で練習してきなさい」

「私なんてたいしたことないよ。美晴も練習したらきっと上手くなるから。」

美晴は天井を仰いだ。

嘘つき。

スタートは同じだったじゃない、全員が同じくらい下手で、何も吹けなくて、なのにどうしてこんなに差がつくんだろう。自分なりに一生懸命にやったのに、何がいけなかったの。

「教えてよ、紗里」

美晴は楽譜に目を向けた。十回目、これでダメなら、他のところをやらないといけない、と、歯を食いしばる。美晴には時間が無いのだ。スタンドに立てた楽器に手を伸ばす。

「お困りですか」

「えっ」

知らない人の声が聴こえる。窓の方からかな、と視線を移した瞬間だった。

「あっ、な、なに」

悪寒が走り、美晴は叫んだ。

「お困りですか」

赤黒い液体がべったりとこびりつく窓の下から、血の付いた手がゆっくりと伸び、外枠を掴む。

「お困りですね」

美晴は気づいた。この声は窓の外から聴こえていない。さっきまで鳴っていた風の音も止まり、雲も動いていない。

「こっち」

はっとして後ろを向く。いつからいたのだろう、ベレー帽を被った男の子が立っていた。背丈は低く、中学生の平均程度の身長の美晴よりは、頭ひとつ分くらい小さく見える。スーツの下のシャツの、お腹のあたりに血が染みて、床に向かって溢れている。

「あ、あのっ、すごい怪我だよ」

「大丈夫」

男の子は笑って、口から血を流しながら繰り返した。

「大丈夫です。」

人形のように白い肌をしているから、血の色が一層濃く見える。

「大丈夫じゃない、あなた、死んじゃうよ。先生に、ちょ、ちょっと、離して。先生に言わなきゃいけないから、離してよ、ねぇ」

彼の小さな手は美晴の腕を握りしめる。予想以上に強い力で引っ張られる。

「君の名前は何ですか」

「そんなこと言ってる暇ないから、離してってば」

美晴は焦りから、男の子を怒鳴りつける。しかし、離れない。彼の手はぬめぬめした、生暖かい、不快な感触がする。血が付いているのだろう。美晴の足はがたがたと震え始める。

「僕はずいぶん前に自分の本当の名前を忘れました。今はムジカと名乗っています。」

美晴の額を冷や汗が垂れる。

「なんでその名前なの」

「ラテン語で音楽という意味で、僕の仲間が付けてくれました。僕は音楽が好きで、ずっと聴きっぱなしなんですよ。」

「手、離して」

「断ります」

ムジカが美晴の腕をより強く握った、その時、突然、低く轟く大きな音と共に地面が揺れ出した。

「ちょ、ちょっと、何なのこれ」

「手、離さないでくださいよ」

揺れに耐えていると、目の前に真っ黒な円形の物体が現れ、中身が割れた。欠片は天井の四隅に真っ直ぐ伸びていく。

「えっ」

美晴は呆然としてその光景を見ていた。天井に辿り着いた欠片は光を潰すようにして急速に広がり、まばたきをしている間に右も左もすっかり見えなくなってしまった。あの音も、地面の揺れも、ぴたりと止まり、静寂の中、ムジカがぜいぜいと息をするのだけが聴こえる。

「ふぅ、ぐっうっうう、がふぅっ」

美晴は我に返った。ごぼごぼ、と音がする。血を吐いているのだ、となんとなくわかった。

「やっぱり、大丈夫じゃないじゃん」

ムジカの手を握る。

「手、すごく冷たいよ。」

ムジカは何も言わずに、もう片方の手で優しく払いのけた。表情すら見えないほど、辺りは暗い。

「教室に結界を貼りました。魔力が残っていて良かった。さあ、もう安心ですよ。君と僕はずっと二人っきり、誰も来れません。」ムジカは荒い息をつき、ふふ、と笑った。

「そう、なんだ……」美晴の頭に疑問符が浮かぶ。結界とか魔力とか、非現実的かつ、耳馴染みの無い言葉だった。小さい頃にそういう言葉を使うアニメを見たような気がした。

「腹の傷も、もう治りました。ほらね」ムジカはそう言うと、美晴の腕を引っ張り、手を自分の腹に付けた。

「服まで乾いてる…。どうして」

「僕が魔術師だからですよ」

「魔術師って、何」本来は、こんなことを言われてもちょっとおかしな人だと思ってまともに取り入れない。しかし、こんな現象が普通の日常で起こるはずがなく、美晴は話を聞くことにした。

「君には何か、願いごとはありますか」

予想していなかった質問だ。

「あるよ。」

「僕達は、願いを叶える代わりに、この力を使って敵と戦わなければいけないのです。」

「そうなんだ。」

「叶えたいですか」

美晴は答えられなかった。

「君の音、とても苦しそうでしたよ。音楽のことで悩みがあるのでしょう。」

その通りだった。でも、美晴は黙ったままだ。

「魔術師は願いごとがある人なら誰でもなれるものです。戦いのことが心配なら助けますから。実は僕ね、けっこう強くて、君を守りながら戦うなんて容易いことなんですよ、本来はね。……今は、相手が悪すぎますが。」

「ムジカくんに願いを言えばいいの」

「ええ。」

上手くなりたい。それが願いだった。本当に叶えていいのだろうか、出会ったばかりの男の子にこんなにくだらない願いを明かして、笑われないだろうか。でも、このままじゃコンクールにも出られない、先生にもずっと怒られる。友達だった紗里のこともだんだん嫌いになっていって、そんな毎日から早く逃げ出したいと思っていた。

「本当に、叶うよね」

「努力は裏切らないなんて嘘ですよ。でも、僕の言葉に嘘はありません。大丈夫、信じてください。」

美晴ははっとした。全て見透かされていたみたいだった。

「私の、願いは」

言い終わる前に、白く光る剣が誰かに突き刺さった。ムジカのうめき声が耳に入った。

「ムジカくんっ」

「……話の途中で割り込むなんて残酷になったものだね。魔法少女の使命を忘れたのか、ブレイブハート」

「残酷、私の仲間を、先輩をみんな殺したあなたにこそ似合っている。」

闇が祓われ、真っ赤な夕日が顔を出す。白い衣に包まれた、天使のような容貌の女性がそこにいた。

「今日こそ、全部終わらせるから。」

冷たい目だった。

「や、やめてっムジカくんは私のためにっ」

ムジカは剣を抑え、美晴の方を振り向いた。床に落ちている血と同じ色だったが、その瞳は、とても優しく見えた。

「静かに。君を元の世界に返しましょう。どうやら願いを叶えるのは今ではないようです。結界は破られた、このままでは君は巻き込まれてしまう。」

ムジカはそこまで言って、少しだけ間を置き、考え込んでから気づいた。

「あぁ、そうだ、まだ名前を聞いていませんでした。」

「私は美晴、織部美晴だよ」

「綺麗な名前だ。……美晴さんは、何のために音楽を始めたのですか」

……わからない。

「僕は心の入った音楽が好きです。次に会う時は、君もそんな音が奏でられるようになってほしい。」

「また会えるの」

「勿論ですよ。」

「私、約束する。心の入った音楽って何かわからないけど、見つけてみせるよ。」

「僕も約束しよう、いつか君の願いを叶える。そして、一緒に、ぐっ」

「また誰かを騙そうとしているのね。」

「い、いや、違う……き、みたち、は、てき、だから……僕だって好きで、やってるわけじゃ、ない、はぁ……っこの……人、は……何も、かんけ、い、ないから……っ」

ムジカの口からどくどくと血が溢れる。

「はー……はぁっ、美晴さん、僕は大丈夫ですから、約束、お互いに、破らないっよう、に」

美晴はムジカの名前を叫ぼうとした。しかし、誰もいなかった。

 

夢から醒めたみたいだった。

窓を見ると、血は全く付いていない。雲は風の音と共にゆったりと動いている。

 

美晴は、スタンドに立てた楽器を取った。楽譜のページを捲り、好きなアーティストの曲のパート譜を開いた。椅子に深く座り、息を吸った。

 

「あはは、やっぱり下手くそだな」

美晴はペンを取って、コンクールの曲の楽譜を開き、一番上に、円ではなく、走り書きの字でもなく、丁寧にこう記した。

「心の入った音楽」と。

@ptymiruka
ァァ…