石戸諭×桂大介×東浩紀 ネットで(ついに)社会が変わるのか?#ゲンロン240718 のレビュー後編(by su1ta1)

ぷかぷか・ろー浮遊民
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公開:2025/3/23

タイトル「社会にあらがうために」(後編)

イベントの放送リンク(https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20240718)

☆部外者の持論☆

【キーワード的な何か】

別媒体の動き、再生数至上主義、勝ち負けなんてない、敵と味方?、ゲンロン、知の観客、祭りと政、小さな☆5のちから

【まえがき】

この放送回は意図せずとして何か大きなものを象徴しているような気がする。実際私自身もずっと構想を練りつつもこのレビューを書けないでいた。それは他の人も同様であまり肯定的な意見が見えないので同じではないのかと考えている。

まずゲンロン名物有名レビュアーが全然レビューを書いていない。小さな感想すらない。イベント後半でもanonymコメントが増えていたし、実際特に07:53:00以降のコメントは登壇者の様々な行動言動に対して否定的なコメントが多い。

そしてこれから私の持論を述べるが、本イベントの現象に関して、意外なことにゲンロンにとって実に良いことだったのではないのかなと感じている。思えばこの放送は、深掘りゲンロンシリーズ#2 の政治イベント回であった。このシリーズは僕の知る限り政局や現在の政治について語るシリーズのような気がしている。つまりこのシリーズでは従来のゲンロンカフェのイベントとは別シリーズであるということである。

【問題提起】

少なくとも僕にとってゲンロンカフェのイベントとは、現地参加ならば極限まで集中し、出来ることなら良質な質問をして夜の7時から深夜3時まで自身の知的限界を拡張する、シラスで聴いている時はラジオ感覚で、日本に現存する全てのメディアや大学の講義では体験し得ない究極の啓蒙、それこそ博物館や美術館、記念館などの展示を鑑賞しているような体験をしていただいた感覚でシラスを利用していた。

また本イベントの内容は☆部分的ネタバレレビュー☆で述べた通り、各ネット放送メディアの選挙前の動向や選挙後の動きについて言及したところから始まった。このレビューを読んでいる人にはぜひ理解してほしい。果たしてゲンロンカフェのイベントは政治史的な歴史的観点は述べていたとしても、ある選挙が控えている中でその候補者に対して応援をするような内容であったり、特定の各メディアの動向の分析や具体的な政局、特定の候補者についての是非などについて取り上げたことはあっただろうか?問題提起をしたので本論に入っていく。

【本論】 

「敵でも味方でもないYoutubeメディアたち」

東浩紀の突発配信では安野さんに入れようかなとか蓮舫陣営は〇〇などある意味で政治的に振り切った放送回はたくさんあったような気がする。しかし突発は突発でイベント企画である。ここまで政治的に割と振り切ったイベントはあっただろうか?私はなかったと記憶している。(あったらごめんなさい)

僕が思うに、リハックや新NewsPicsのように「再生回数至上主義」を政治の世界と合体させてお金を稼ぎ、バズれば170万票という世界観に対して、個人的に嫌悪している。それこそ全体主義的だしアテンションエコノミーだしヘイトスピーチ的だし炎上商法だし誹謗中傷的であると思う。それは2010年代後半から2020年前半まで様々な社会問題を含んでいるし、実際に悲惨な結果を迎えてしまった人物も私たちは知っていると思う。

だからこそゲンロンはいわゆる政局に対して距離を置くべきだし、むしろニコ生の特番のように別会場でやった方が良かったのかもしれないと思っている。

そもそも競合他社のメディアという価値観が間違っていると思う、たしかに東さんが数字を大切に思う気持ちもわかる、なぜならそれが東さんの強さで今まで生き抜いてきた強さだから。そしてポリタスは競合するライバルであるということもわかる。荻上さんのresesson もわかる。ただリハックはバズ政治メディアでpivot、NPは経済メディアである。個人的に"勝ち負け"の世界でなく完全に別の軸で動いていると思う。

本放送がこのような顛末を迎えたのは実のところ実際の選挙を題材としたイベントだったからと私は考えている。選挙というのは民意の表れで、全てのテレビ局が同じ方向を向く唯一の瞬間だからである。それは言論の世界も同じで皆が選挙に対して意識してしまう。

別にニコ生でも選挙特番をやってたし参院選の2次会でもシラスの放送をやっていたから前例はあるし成功しているからゲンロンカフェでこういう番組をやっても良いと思う。しかし、というかある意味だからこそ必然的に失敗してしまったと私は感じている。そもそもゲンロンカフェで選挙2次会は不可能だったと感じている。選挙という大きな祝祭空間とゲンロンカフェは相性が悪すぎる。それこそ選挙の2次会は本来ニコ生が担うべき仕事だったのだと思う。

【本論2】

「しらす←→まつる 知の観客」

本イベントを通してずっとシラスの存在意味について考えていました、個人的には政治から離れた世界であってほしい、なぜならそれは友敵理論で分断を生む石丸的世界観だから、非常にそういう世界は怖い。そこで初心に帰ってみようと思い、2020年12月に中公新書ラクレから出版された『ゲンロン戦記』を再度読んでみることにした。その第5章、第6章では以下のことが書かれていました、シラスの命名について

『この命名には三つの理由があります。ひとつは文字どおり魚のシラス。(略)シラス設立の目的は「非人間的なネットの中に人間的な空間を泡のように作る」(中略)

ふたつめは「知らせる」と「お白州」。情報を伝えたり、判断したりするための場ということです。そして三つめは(略)古語の「しらす」(中略)

「しらす」が神の言葉を知る」という意味なのに対して、「まつる」は「神の言葉を伝える」という意味であると最近のネットではまさに「まつり」ばかりが多いので、そこに「まつりではないもの」を忍び込ませたいという思いを込めました』(東浩紀,中央公論新社,2020年12月10日)

猪瀬直樹氏はよく祝祭空間の重要性について良く語っていた。僕は全く大事だとは思わないし万博のお金の使い方には不透明感がありすぎる。成功するのかも今のところは怪しい。ただ、結局五輪も万博もあるいは選挙も巨大な「祝祭空間」なんだろうなと本放送を聞いて気づいた。2022参院選から約2年間、大手メディアが都知事選を国政のように報道するのはどうかとは思うが、とりあえず都知事選が祝祭空間として機能しているのは事実であろう。特に政治の空間においてはそうだと思った。結局猪瀬直樹氏は当時見た祝祭空間を政治の風景に巻き込まれたのだろう。それだけ祝祭空間、いや「まつること」は莫大なエネルギーなのだろう。

しかしゲンロンのシラスは最初の理念の通り、

「しらす←→まつる」である。いかに祝祭空間から離れ、知の観客を育てることに注力したのかが目にもってわかる。

ここで猪瀬直樹氏に触れているのは実は東浩紀氏も巨大なエネルギーに取り込まれているのではないか、という指摘でもある。一応書いておくが私は猪瀬直樹氏を支持しているし、維新支持者だし、猪瀬直樹に参院選で入れたことに後悔はしていない。もっとも著作が劣化しているという指摘はあるものの、彼が望んだ道なので特に言うつもりはない(ただ、あのイベントでの態度は失望しているが。)

政治とは巨大な祭りごとである。それは昔から言われている。政(マツリゴト)とよむ時点で決まっている。

東浩紀の安野貴博支持には何も思わない。しかしその一方で、この放送回の失敗がある。

ゲンロンはゲンロン。シラスはシラス。そして選挙特番は選挙特番である。小さな小さなシラスたちの☆5の評価では社会では戦えないのかもしれない。しかし再生回数とは別にかのコミュニティには力があると思う。それは公共的なイベントだったり、歴史的なアーカイブがそれを証明している。シラスの課金でフローもたくさんあると思う。

それこそが力だと思う。東さんは周りから舐められてもかつてゲンロンの社外の人が応援してくれたようにたくさんの人が応援していることを忘れないでもらいたいです。たくさんの知の観客があなたを支援しています。

ま、そんなこといってもぼくはあずまん信者だから結局無なのかもしれませんが(ズコーー)(お前は信者アンチを超えた知の観客じゃないんかい

【癒しの大喜利コーナー】

[東浩紀が安野さんを応援しているとき、東さんの中にある、内なるqpp的応答の例]

('ω')ノ あんの

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@pukapuka_41064
ぷかぷかしている人、ぷかぷか共和国のおさ、つねに浮ついていると定ひょうがある。ブクブクはするが、アワアワはしないようにがんばるらしい。